002階段の下
 
 
 
 
 誰もがお前みたいにやれるわけじゃないよ、と放ったその声はまるで怒鳴ったかのよう
な語調になってしまって、なぜか言った僕のほうがぎくりとしてしまった。それまでなん
てことない話をしていたはずの僕の言葉に驚いた顔をしていた紅は、しかしすぐにとても
困った顔になった。さっきの言葉で緊張した僕の部屋の空気は、紅のその表情でごまかし
ようのないものになってしまった。
 紅は腰掛けていたベッドからずるずると床に滑り落ちた。この部屋から、そして僕から
逃げ出そうとしているような気がして、それにも僕はたまらなくなる。しかし紅がそうい
うことをしないということも僕はちゃんと知っている。紅はただ、床に座っている僕に目
の高さを合わせようとしただけなのだ。紅は卑怯なことは絶対しない。そして人にも許さ
ない。
 床に下りてきて、そしてきちんと正座した紅が先に口を開いた。
「わたしみたいに、ってなに」
 僕は、紅の目を見ることが出来なかった。
 
 
 
 その日はそのまま、気まずいまま紅は帰っていってしまった。
 紅が僕に問いかけたことに、僕は結局なに一つまともな答えを返せないまま、ただ言い
方がきつかったと謝って、だけどその言葉を撤回することはできなかった。
『誰もがお前みたいにやれるわけじゃないよ』
 あれは僕がずっと紅に言いたかったことだったのだと、言った後で気がついたからだ。
 紅のように生きることができるならどれだけいいだろう。
 好きなものに向かって邁進し、それを楽しみ努力して確実にそれを手に入れる。そして
求めるものからも求められ愛される。紅を取り巻く全てが彼女を助けて応援して導いて、
まるで綺麗な階段が、紅のために存在するかのようだと僕はいつも思う。そしてその先が
見えないほど長い階段に恐れすら感じる周囲をよそに、紅はためらうことも倦むことすら
もなく、どころか嬉々として上を目指している。
 なに一つ迷うことなく、大学院に進んで哲学をやるのだと決めている紅。そしてそれに
飛び上がらんばかりに喜んでいる教授達。
 選ばれている。
 紅は紛れもなくそんな存在で、しかし当の本人は、まるでそんなことを思っちゃいない。
 自分をごく普通の人間で、自分が当たり前のようにできることは、他のだれもができる
ことだと思っている。自分はただ哲学が好きなだけなのだ、と。
 いや、たしかに紅に出来るのは、全て当たり前のことなのだ。紅が自分を普通だと思う
のは、当然のことなのかもしれない。
 紅がしているのは、好きなものは求める、そのためには努力を惜しまなければいい、と
いう、ただそれだけのことだ。いやになるほど当たり前な。
 だけど、その当たり前で簡単で単純な、たったそれだけのことが出来ない人間の方が、
圧倒的に多いんだってことを、紅はちゃんと知っているのだろうか。全ての人の目の前に
その人がのぼる階段があるとは限らないと、思ったことがあるだろうか。
 僕の目の前には紅のように、階段があるわけではない。いや、もしかしたらあるのかも
しれないけれど、僕にはそれが見えない。
 そう言えば紅はきっと、
「そんなの正樹が見ようとしないだけでしょう」
と言ってのけるだろう。そしてそれはとても正しい。僕には自分の階段を直視して、上る
勇気がない。その階段がどこまでも延びているということを信じることが出来ない。続く
先を夢見ることが出来ない。そう、紅のようには。
 紅が彼女の階段を楽しみながらのぼっていって、そしてどこに行き着くのか僕には知り
ようもない。その後ろ姿が、僕の視界からいつ見えなくなってしまうのかも。
 当たり前のことすらできない僕は、ただ力強く一歩一歩上っていく紅を見つめるだけだ。
 この、階段の下から。
 
 
 
 
(20030119)
 
 
 
 
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