003荒野
 
 
 
 
 これほど不甲斐なくなってしまっているというのに、李璐はまるで甘ったれも自嘲もせず、
どころか追いつめられて今にも命がなくなるような、そんな顔をして、部屋の真ん中に大の
字になっていた。
 服は身につけておらず、かろうじて下着がその体にひっついている程度で、僕はその光景
に当惑し、しかし李璐の表情の険しさに、そういうこともいっていられなくて、あわてて身
近にあったシャツをその体にかける。李璐がなにかつぶやいて、僕はとっさに日本語で、
「なに、聞こえない」
という。今度は李璐が僕に、なにをいってるかわからない、中国語で、と中国語で言い返す。
だから僕は、今度は中国語で、どうしたの、と問うた。
『わからない』
『なんで服を着てないんだ。なにがあった』
『なにも』
 なにも。
 李璐は怪我をしていない。体の具合が悪いというわけではないらしい。
 ただなにかに責め立てられている気がしているらしい。
 李璐の日本人の僕より少ない語彙の中に、そんな感情をあらわすだけの言葉がないのを僕
は知っている。
 彼女はろくな教育も受けず、中国の奥地で物売りをしていた。
 話す言葉は方言混じりで読み書きもおぼつかない彼女が、初めて僕に会った時、唯一知っ
ていた日本語は、
「サヨナラ」
 今会ったばかりだというのにそんなことを言われて、僕は面食らい、苦笑し、そんなこと
をにこにこと言えるその日に焼けて乾燥した顔を見つめた。美人でもないけれど、かわいら
しい様子をしていた。
 僕のいた宿舎の近くで果物を売っていた李璐。親しくなるのはあっという間だった。
 その無教養さに時々あきれることはあったけれど、李璐は僕が言って聞かせればちゃんと
言うことを理解して善処したし、そもそも気立てはいいので、明るく気前もよく世話好きな
彼女に、僕はどんどん惹かれた。
 そうして李璐と離れたくないなあと思い始めた頃、僕の会社が、日本に帰って来いといっ
てきて、だから僕は李璐に結婚を申し込んだ。僕と一緒に日本に来てと。
 李璐は二つ返事だった。
 それは僕の言うことを理解しているのか不安になるほどだった。
 しかし彼女の両親はものすごい喜びようだったし、結婚式には把握しきれないほどの人が
来て僕と李璐を祝ってくれた。そのあとすぐに日本に旅立ったのだけれど、李璐はこちらが
心配になるほど不安がりも淋しがりもしなかった。
 李璐はいい奥さんだった。
 料理もできたし、日本製の便利で高性能な家電にもおもちゃに飛びつくみたいにしてすぐ
に使い方を覚え、また、使い。日本語は相変わらず少ししかしゃべれなかったけれど、それ
でも友達もちらほらできたみたいで、楽しげではあった。
 だからいいのだと思っていた。
 
 
『ねえ、知ってる?』
 僕の胸にもたれかかりながら、表情とはとても結びつかないやさしい声で、李璐がポツリ
と呟いた。
『私、もうすぐ狂う』
『まさか』
 李璐は馬鹿だ。馬鹿だからすぐそんなことを言う。
 なのになんで僕は、笑い飛ばせもせず、李璐をきつく抱きしめてしまうのか。
『さっき、もう少しで狂うところだった』
『もう言うな』
 ますます笑えなくなっていく僕は、李璐のすっかりつやつやとしたやわらかな頬をなで。
 潤っては生きていけないとでもいうかのような李璐の体を床に組み敷いた。
 
 
 
 
(20030106)
 
 
 
 
 
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