005釣りをする人
 
 
 
 
 この星の舳先に座り、そろりそろりと鞭のように細くてしなる竿の先につけた糸をたら
して、コッファはわけもなく息を殺した。目に見えない速度で動く星が宇宙を切り裂くそ
のわずかな抵抗で、ゆらりゆらりと糸が踊る。普通の人間が崩さないところまでほころば
せたその口元と、無限の闇を臨むその遠すぎる視線。体は微動だにしないというのに、コ
ッファの表情はめまぐるしく変化する。放っておけば、鼻まで縦横無尽に動き回りそう。
 対照的に、しばらくたっても釣竿からはなんの手ごたえもない。
 たまたまそこを通りがかった人がいた。
 その人は、漆黒の世界ばかりを向き、この星に背を向けている男の姿を認め、だがすぐ
に忌々しげに顔をそむけた。
「きちがいコッファがまたあんなことを」
 連れにそう吐き捨て、そしてその連れも眉をひそめる。星の人々にとってはコッフォは
狂人以外の何者でもなかったし、またそれはとても正しい判断だった。事実コッフォは人
と話すことすらまともにできない。彼は早くに両親を亡くしているので、この頼りない存
在を庇護してくれるはずの肉親は一人もいなかったのだが、コッフォの隣りに住む中年女
が、気の毒がって時々世話をしている。朝夕の食事を作り、衣服や部屋を清潔に保ち。
 だがコッフォの口から彼女へ感謝の気持ちが告げられたことは、いまだかつてない。そ
してこれからもないであろう。そもそも彼は、だれかに感謝するということすら知らない
のだから。
 彼の世界には彼しかおらず、たとえキッチンで暖かいスープが鍋から湯気を立てていた
としても、ただそれだけのことで、どうしてそれがあるのかとは一切考えないのだ。目の
前にある、それ以外はなにも。
 そんなコッフォの唯一と言っていい日課が、こうして星の端にきて宇宙へと釣り糸をた
れることだった。ほとんど平らに近いこの星には、突き出た部分が存在し、そこはこの十
年、コッフォの指定席になっていた。
 この星へ人間が移住してやっと百年。故郷であったはずの星のことを覚えている人はも
うすべてこの世を去り、今はこの星で生まれた百人ほどが、細々と暮らすばかりだ。
 故郷の星は、ここから気が遠くなるほど彼方にある。人が増えすぎたその星から逃れて
ここにたどりづくまでに、二世代を必要とした。船の中で生まれた人もいれば、新天地を
見ることなく死んでしまったものもいる。それでもどうにか住めそうなこの星を見つけ、
人が住めるようにするまでにさらに数十年。もっともこれは、惑星の切れっぱしのような
この星だったから、そんな短期間ですんだのかもしれない。
 種を蒔き家畜を増やし建物を作り布を織り。
 そんな、何世紀も前の暮らし方をなぞるように繰り返して。
 ささやかだがやっと、幸せに暮らしているという実感が持てるようになったその矢先に、
コッファが。
 生まれた
 そしてそれは星の人々の不安の種になった。
 コッファはこの星ではじめて生まれたきちがいで、誰も彼をどうすればいいのか知らな
かった。
 データなど何の役にも立たなかった。ただうろたえた。そして生じた、体つきでも考え
方でもなく、精神が自分たちとは異なるものに対する畏れを、具体的にどうすればいいの
か、誰にもわからなかったのだ。
 コッファは相変わらず少しも竿の先を見ないで、顔をまっすぐ前に向けている。そうい
えば、魚など映像でしか知らないこの星の一体誰が、それを獲る術を知り、そしてコッフ
ァに教えたのであろう。
 夕飯の支度ができたので星の果てまでコッファを呼びに来た隣りの女は、お決まりの場
所にいつもと寸分たがわぬ姿で座っている彼の背を見ながら、ふとそんなことを思った。
コッファがあんなことを始めるまで、この星の人は誰もあれがなにをするための動作なの
か知らず、しばらくして誰かが資料の中から偶然見つけてそれと知れたくらいなのに。
 それとも、誰かに教えられたのではなく、そしてコッファも魚を獲るためだとは知らず、
たまたまあんな一人遊びを思いついたのかも。狂人の思考は常人のそれとは違うのだから、
彼がなにを思いついたのだとしても、それほど驚くべきことではないのだろう。
「コッファ、さあ帰るんだよ。スープが冷めちまうよ」
 急に後ろから声をかけたり触れられたりすると、コッファはひどく驚いて暴れたりする
ので、女は足音を殺さないように近寄り、コッファの横に並んで、それから声をかける。
そうすれば比較的おとなしく言うことを聞くのだ。
 だがこの日は、コッファはなかなか竿をしまわなかった。女はそれに、おや、と首をか
しげた。よく見ると、コッファはまるで狂ってなぞいないかのような、穏やかな顔をして
いる。
「どうしたんだい、コッファ」
 答えを期待したわけではなかった。早く帰りたいと、ただそれを思いながら、上の空で
女は問い掛けた。
「じゅうねんぶん、ちぢまった」
 初めて聞く、かなきり声以外の、コッフォの声だった。
 あまりに驚いたので、女はコッフォがなんといったのかわからなかった。だからもう一
度問い返すと、
「このやみを、じゅうねんぶんつったから、つぎはじゅうねんぶんいらない」
というようなことを、それはそれは、嬉しそうに。
「だれもしなずにほしへいける」
 これまで話さなかったのが嘘のように、コッフォの言葉は止まらない。
 茫然と、女はその言葉を自分の中に受け止め分解し再構成し足りないものをつけ加え、
そうしてやっと、コッフォは自分らの祖先がこの星へ移ってきたときのことを言っている
のだと気づいた。故郷を離れ何十年もこの闇をさまよったのだと、この星の人間は何度も
年寄り連中に聞かされていて、いくらきちがいとはいえコッフォだって例外ではない。
 永遠に続くかとさえ思ったと語られているその闇を、それではコッフォは十年もの間こ
こで釣っていたというのか。
 女の体が、おこりでもついたかのように震え始める。涙はもう服さえ濡らすほどだった
し、嗚咽は抑えようもなかった。恐ろしいのと悲しいのと愛しいのと切ないのと淋しいの
と、他にもたくさんの感情が押し寄せて、女は膝を折った。それでも足りず、地面に両手
を突っ張って、慟哭した。
 この星で生まれた自分には、故郷への憧憬などないと思っていた。それは故郷を知る、
もしくは故郷を知る人を実際に知る世代までの特権だと。
 だけど、今自分を泣かせている感情、この中にはたしかに郷愁がある。映像でですらあ
まり見る機会もなかった故郷を懐かしむ気持ち。これほど焦がれていたなんて、自分でも
知らなかった。
 戻れるものなら故郷の星へ戻りたい。
 本当に、こうして釣竿をたれていることで闇が縮まるならどれだけいいだろう。
 狂人でもなければこんなこと、確かにできやしない。
 泣き濡れた目で、女はコッフォが見つめる先を見る。
 ぼやけた視界でとらえた闇は、いつもより淡いような気がして、女は笑わないではいら
れなかった。
 
 
 
 
(20031207)
 
 
 
 
 
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