011柔らかい殻
 
 
 
 
 
 もうすぐ自分は狂うと李璐は言ったけれど、今のところその様子は見られず、相変わらず
料理を作ったり掃除をしたり洗濯をしたり、時々故郷の歌をか細い声で歌ったりしていたけ
れど、それは全く以前の李璐だったので、一体僕は李璐がどうして狂うなんて言い出したの
か、そして、どうして僕があれほどあの時の李璐に動揺させられたのかを、考えることもな
く忘れてしまおうとしていた。いや、思い出そうとすると、まるで自分が死ぬということを
考えた時のような、思うだけで体も心も腐って凍って粉々になりそうな恐怖が襲いかかるの
で、僕はその疑問の尻尾にすら手を伸ばせないままでいる。自分を臆病だと思う以前に、そ
んなことを故意に悩むのは愚かなんだと言い聞かせて逃げる。いや、逃げているという自覚
さえも自分に与えないように、僕は細心の注意を払った。そしてそれはなかなかうまくいっ
ているのだと思う。
「コーチ」
 李璐が僕を呼ぶ声に、僕はぼんやりと長い間磨いていたらしい木のテーブルからやっと顔
を上げた。まんべんなく全体を磨いたならまだしも、一箇所だけ台拭きを何往復もさせてい
たそこだけがぴかぴかと光って、それが李璐を笑わせる。夫の日本名を、まだうまく発音で
きない大陸生まれの僕の妻。本人はちゃんと「広一」と呼んでいるつもりなのだろうが、そ
れはどう聞いても「コーチ」で、僕はまるで李璐になにかを教えているかのような気になる。
しかし確かに僕は李璐の先生であるには違いない。李璐のとてもゆっくりとした日本語学習
につきあうのはとても骨が折れるのだけれど、真面目で素直である李璐が一つ一つの言葉を
吸収していくのを見るのは、教えるものとしてはなかなか楽しいことであったし、李璐が覚
えたての単語を得々として、でもしかし間違いもおかしながら日本人の友人らにしゃべって
いるのは、どこかほほえましくさえあった。
「ゴハンマスヨー」
「です、だよ」
「喔、是的是的。ゴハンデスヨ、コーチ」
「はいはい」
 李璐は少しづつ、日本の料理も作れるようになった。友達の中に料理が得意な人がいて、
彼女に教わっているらしい。日本の火力の弱いガスコンロは中華にはあまり向かないけれど、
あれこれと手を加える必要があったりじっくり火を通すことが求められる日本料理にはぴっ
たりで、もともと料理の心得がある李璐はこれもまた難無くこなす。これは僕に教えるだけ
の技量も知識もないので、その李璐に料理を教えてくれているという人には、本当に感謝し
ていた。その上、全然中国語のできないその人に、たどたどしいながらも日本語で教えても
らっているため、李璐は彼女に会ってから大分日本語が上達したように思う。
「オイシーネー」
「ああ、いいにおいだね」
 まだどこかずれている李璐と言葉を交わしながら、僕は箸を取った。
 今日の夕食は完全に和食ばかりだった。
 干しガレイを焼いて、それに大根おろしを添え、それにほうれん草の胡麻和えと南瓜の煮
物がつく。ご飯と味噌汁もきっちりついていて、完璧だ。
 味は、僕の母が作っていたのとは少し違うようだったけれど、でもとてもおいしかった。
ほめると李璐はニコニコして、オイシーデスネーヨカッター、と繰り返す。李璐はこのごろ、
あまり中国語を話さないよう努力するようになったのだけれど、話せる言葉がまだ少ないの
で同じ言葉を何度も言う。そういうふうにして李璐は言葉の一つ一つを体にしみこませてい
るのだと気づいたのはつい最近。
 李璐の体を、日本語と日本料理と、そして僕だけで満たせてしまいたい。
 僕はいつもそう思っているけれど、それを面と向かって李璐に言ったことは、一度だって
ない。
 カレイ、ダイコンオロシ、と目の前の料理の名を繰り返し口の中で転がす李璐を見つめな
がら、李璐を狂気へと導いているのは、僕なのかもしれないとぼんやり思った。
 
 
 
 
(20030109)
 
 
 
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