040小指の爪
 
 
 
 
 
 事が済んだあと、シャワーを浴びて戻ってきた保はまだ濡れた髪のままベッドに突進して
きて、少しうとうとしかけていた淳をめちゃくちゃ驚かせた。そのうえ、乱暴に布団の中に
入ってきた保の足の指が、淳のすねを引っかいた。その、ちょっとこらえられないくらいの
衝撃が淳の目を完全に覚まさせる。
「いっ…て…」
「え」
 途端に体を丸めて足を抱えた淳に、やっと保は自分がなにかやらかしたと気づいたらしい。
ばふ、と二人を覆っていたあったかい羽毛布団をはいで、しかし裸の二人はすぐに耐えられ
なくなって、寒い、と淳が別のうめき声を上げるより早く保はまた布団を戻す。
「え、え、どうしたの」
「お前の足の爪が…」
「あ、引っかいちゃった、もしかして」
「…そうだよ」
 まるで自覚がなかったらしい保はほっといて、淳は痛いところを押さえていた手をそこか
ら離し、布団の中からそろそろと出してみる。血が出ていたりしませんように、とちらりと
思ったけれど、ルームライトの薄暗い明かりの中で見ても、残念ながら淳の手には赤い血の
線が引かれていた。わりと深く引っかいたらい。血が出ていると知ると、余計に痛く感じ
るのはなんでかな、なんてのんきなことを思ったのは一瞬で、
「シャワー浴びるわ、やっぱ」
 面倒だったので明日の朝にしようと思っていたのだけれど、そうも言っていられない。ど
うせ明日にはシーツもなにも全部洗わなければならないのだけれど、だからって血はまた別
な気がする。
「ごめんな、淳」
「…イテーよ、マジで」
 背中で保に返事しながら、淳はバスルームに入った。
 さっき保が出たばかりなのでまだ温かいそこで、とりあえず体を洗う。明るいところでち
ゃんと傷を見ると、弁慶の泣き所に三センチほどのまっすぐな傷。お湯をかけるとしみる。
 むすっとしたままバスルームを出て、そして薬などを入れている引き出しの中からばんそ
うこうを取り出して貼り付ける。とりあえず、これでいいだろう。
 寒いのにベッドの上に上半身を起こして、じっと淳を見ていた保が、戻ってきた淳にまた
頭を下げた。
「ごめんな、痛いだろ。小指の爪だけ切り忘れて伸びてた」
「…もういいよ、寝ろよ」
「爪切り貸してよ。今切るから」
 また寝てる間に引っかくかもしれないじゃん、と保はその子どもみたいな顔に真剣な色を
のせて、淳に手を伸ばす。爪切りよりなにより先に、服を着てはどうかと思って、床に転が
っていた服を保に投げてよこす。
「いいよ、縁起が悪いから。明日起きてから切ればいい」
「夜爪を切ると親の死に目に会えないって、あれのこと言ってんの」
「…うん、まあ」
「じゃあ俺にはもう親はいないから、いいんじゃん」
 だから爪切り貸してよ、という保を、淳は自分がベッドに潜り込むのと同時に引き込む。
Tシャツを着かけていた保は、バランスを崩して淳の上にのしかかった。
「それってそういう意味じゃないんだって知ってるか」
 保の背中でめくれてるTシャツを直してやりながら、淳は保の耳元で囁く。
「…なにが違うんだよ」
 耳の弱い保は、肩を耳につけるようにしてその刺激から逃れようとするけれど、淳がしっ
かり自分を抱きしめているのでそれ以上はどうにも出来ない。しかも淳の手は、保の背中を
ゆるゆると動き回っている。逃げ出せるわけもない。
「夜爪を切るってのは、よをつめる、に通じるんだってさ」
「どういう…」
「親の死に目に会えないってのは、親より先に死ぬから会えないってさ」
 若死にするぞ、ってこと。そう囁いて、ついでに耳たぶに軽く歯を立てると、もう保は我
慢できなくて小さく声を上げた。それからは保はもう爪切りなどどうでもよくなってしまっ
たらしく、そしてもちろん淳も爪切りのことなどどうでもよくて。せっかく着たTシャツも、
浴びたシャワーも、全てが無になった。
「ねえ、さっきの、本当」
 よをつめるってほんとう、と体を動かしながら問うてくる保に、荒い息の中で淳は、さあ、
と薄く笑う。
「お前ともう一回やりたい口実だったかもよ」
 それを保はちゃんと聞いていただろうか。
 しかし言った淳自身も、もうそんなことはどうでもよかったにちがいない。
 
 
 結局ふたりはそのまま溶けるように眠ってしまったうえに、激しく寝坊して慌てて出勤し
たため、保の小指の爪は、いまだ長いままである。
 ふたりのよがつめられてしまうことは、もうしばらくない。
 
 
 
 
(20030123)
 
 
 
 
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