044チョコボウル 
 
 
 
 
 で、どうしたらいいのかな、この惨状を。
 
 いっそ清々しくさえある顔つきで、蒼子は目の前のとっ散らかって手を出すのさえ恐ろ
しいキッチンを見た。そしていつものくせで腕組みをしようとしたのだけれど、自分の手
が今どんなことになっているのかを思い出し、慌ててやめる。はずみで両腕を上にあげて
しまって、それは本当に的確に蒼子の心情を表す格好であることに気づき、蒼子はさっき
からずっと浮かんでは消していた言葉の存在を自分の中で認めた。
(もうだめだ。)
 なんなのチョコレートって。どうしてこんなに思い通りにならないの、と心の中で大憤
慨しながら、蒼子は片付けの楽なものから流しに突っ込んだ。しかし本当に、いくら初め
て挑戦したからって、いくらなんでももうちょっとなんとかなってもいいものではないの
か、と蒼子は自分のあまりの不器用さに、使ったものを片付けながら悲しくなる。
 たしかに、ここのところ忙しくて、練習なんていうものが出来なかったということもあ
る。そんなわけで前日になってやっと無理矢理時間を作って、手作りチョコレートに挑戦
してみたのだが、もともと料理すらさほどできるわけではない蒼子に、あれこれと面倒な
チョコレートなど作れるはずもなく。
 それでも何度かやり直してみたのだが全て失敗。気づけばもう当日の14日。もちろん今
日も仕事はあって、いくらなんでもこれ以上は無理。
 うなだれた姿勢のまま洗い物をしつつ、一体健也にどういえばいいものかとそれだけを
ぐるぐる考える。絶対手作りにして、といわれて、つい気安く引き受けてしまった自分の
浅はかさが憎い。あの時の自分はきっと、忙しすぎる仕事のせいで頭がちゃんと働いてい
なかったに違いないと、過去の自分に胸の内で舌打ちする。どうしてできると思ったのか、
その根拠を知りたい。
 諦めてしまった以上、チョコレートはではどこかで買わなければならないだろう。添え
るプレゼントにはもう、健也がほしがっていたCDと春物のシャツを買ってある。明日チ
ョコ買いに行く時間があるだろうかと少し心配になった蒼子だったが、それを振り払うよ
うに冷たい水を流して泡だらけの器具をすすいだ。
 しかしボールいっぱいのチョコレートになるはずだったものを片付けるだけの気力はさ
すがになかったので、そのままテーブルの上に置いて明日の仕事にした。
 
 
 
 仕事はなんとか定時に終わり、待ち合わせの六時半までにはなんとか買い物のできるだ
けの時間はある。とにかく待ち合わせている駅まで移動してから、その近くにあったデパ
ートに飛び込み、一心に地下を目指した。バレンタイン当日も当日。それも夕方になって
いるので人は少ないのではないかという蒼子の予想を裏切って、結構な混雑振りである。
 健也が楽しみにしていた手作りチョコを作れなかったといううしろめたさも手伝って、
ついつい値が張るものばかりに目が行く。あまり時間もなかったので、候補に上げた三つ
のうちで一番パッケージの感じがいいものを選んで慌しく包装してもらうと、ちょうど待
ち合わせの時間になったのでまた早足で待ち合わせていた駅の前へ向かう。
 待つほどもなく健也もやってきた。さほど背が高いわけでもかっこいいわけでもない健
也だが、こうしてビシッとスーツを着ていると、それなりにステキだったりする。
「よっ、どこでメシ食うんだ」
「うーん、タイ料理とかいいかも」
「チョコとタイ料理ってあわねえよ絶対」
 チョコ。
 ギクギクしてしまうのを押さえられない。いつどこで渡して、そして言い訳をすればい
いのかをぐるぐると考え始めてしまった蒼子はもう上の空になり、健也が無難にイタリア
ンにしようというのにうなづくのがやっとだった。
「なんかいっつも結局ここになるよな」
 行き慣れているイタリアンレストランで席につくと、健也は苦笑した。普段それほど口
数が多くない健也がこれほどあれこれ物を言うのは珍しく、バレンタインだから浮かれて
いるんだろうな、と思うとまた少し蒼子の気分が下を向く。
 せっかくの食事もあまり楽しめないまま、デザートまで来てしまった。ここのイチゴの
ジェラートは蒼子の大好物だったのだが、あいにく今日は半分ほども溶かしてしまった。
「…どしたの」
「う、ううん」
「俺の食べてもいいよ」
と健也が自分のジェラートを差し出してくれたけれど、手をつける気力もない。
「あの、チョコね」
「あ、うんうん」
 そんな嬉しそうな顔で見ないで、と思いつつ、蒼子はテーブルの上にまずプレゼントを
差し出す。
「CDと、シャツなんだけど」
「おお、豪華。サンキュー」
「いえ、とんでもないです」
「なんで敬語よ」
「…それでですね」
「へんなの」
「チョコなんですけれども」
「うん、大変だった、もしかして」
「……これで勘弁してください」
 うつむいたまま、蒼子は先ほど買ったチョコの入った紙袋を差し出す。
「ゴディバじゃんこれ」
「作れなかった」
「…ええー…」
「忙しすぎました」
「…そうなのかよ」
 あからさまにがっかりされて、しかし申し訳ないという気持ちとは裏腹に、なんだかむ
かつくなあという気もしないでもなく。
「だって健也も知ってるでしょう、私あんまり料理できないし、チョコって難しいし」
「知ってっけどさあ」
 手作り期待してたのになあ。
「だからごめんって」
「…作ってみるくらいはしてくれてもよかったんじゃん」
 もう限界だった。
「帰るっ」
 椅子を蹴飛ばすようにして席を立った蒼子を、健也が慌てて追う。会計で足止めを食っ
ている健也をよそに、蒼子はずんずんと歩く。駅へ向かおうとして、でもどうにも電車に
乗って帰る気にはなれなかった。なのでタクシーを止めようと足を止めて手を上げたとこ
ろ、
「なんだよ蒼子、なんでキレてんだよ」
と、その手を健也につかまれる。
「…どうせ私は料理もなんにも出来ません」
「そんなことはいってないだろ、楽しみにしてたからちょっと残念だっただけじゃん。そ
れに、ダメもとで頼んだのに、いいよって言ったの蒼子だろう」
 健也の困った顔を見てると、蒼子はもっと悲しくなる。彼女らしいことなど普段からな
に一つしていない自分。すぐに膨れて健也を困らせて。一体今日はなんの日なの。
「…作ったけど、失敗したんだもん」
「……」
 うつむいているので健也の表情はわからない。
「昨日何回もやったけど、全然うまく行かないし。今もボールいっぱい変なものがあるし」
 情けなくて、涙が出そうになる。でも泣きたくない。マスカラが落ちてしまう。へんな
顔になって、これ以上みっともなくってしまえば、健也にあきれられてしまう。
「…泣くなよ」
「泣いてないよっ」
 ああそんなことをいうから、ほろりと。
 蒼子はもう涙を止められなかった。ぼろぼろとあふれて、多分自分をとてもかわいくな
くさせている涙を、苛立たしいと思いつつ拭うこともできない。
 そんな蒼子に、ハンカチを渡してやりながら健也は蒼子の手を引いて、もう片方の手で
タクシーを止めた。
「蒼子んち行くぞ」
「なんでよ」
「そのボールいっぱいのチョコ、スプーンですくって食ってやるよ」
「…おいしくないよ」
「ここで食わなきゃ男が廃るって」
 いつになくしゃきしゃきと伸ばした手で、健也はタクシーを止める。
 もう少し泣きやめそうにない蒼子は、健也の自分を捕まえているほうの腕に抱きついて、
そしてとても久しぶりに、大好き、とつぶやいた。
 
 
 
(20030214)
 
 
 
 
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