051携帯電話
 
 
 
 
 
 不快でない程度の音量と心地よい音楽を呼び出し音にしているため、昨日遅くまでかかっ
た仕事に精も根も尽き果てて熟睡していた啓治は、その電話がもう五分ほども鳴っているの
に目を覚まさず、しかし意識のどこかには触れたのか、昨夜ベッドに倒れたまま全く動かな
かったその体は、もぞりもぞりとベッドの端へ滑る。それでもちゃんとは目覚めないでいた
ので、電話の主は諦めて受話器を置いたらしい。同時に啓治も動くのをやめた。だが、その
三十秒後にけたたましい音を立てて家の電話が鳴って、これには流石の啓治も飛び起きた。
まだ寝ぼけていたのだが、このとんでもない災難の元凶は電話の音で、今すぐ受話器を上げ
なければならない、ということだけは頭に浮かんだらしく、転がり落ちるようにベッドから
降りた啓治は、すぐ脇の机の上に乗っかっているシンプルな電話の受話器を上げた。ぴたり
と音がやんで、それに安心した啓治は、そのまま受話器を置きそうになる。しかしその受話
器から人の声が聞こえてきたので、その電話の本来の目的である通話のために啓治は受話器
を耳に当てた。
「…はい?」
『ハイ、じゃないわよ、なに、なんなのあんた。外人かっつの』
「…どちら…」
『携帯何分鳴らせば起きるのよ、ていうか今何時だと思ってんの』
 言われて素直に置時計を見ると、まだ9時半だ。休みの日にこれって、まだ早いくらいだ
と思うんだけど、いや、それ以前に、
「…マキ?」
『遅いっ!!』
 それからまたひとしきり電話の向こうの相手が啓治を罵る声が続く。
 それを受話器を離して空気越しに聞きながら、一体この女はなんだって人のたまの休みに
朝っぱらから電話かけてきて揚句人を罵っているのだろうと、寝ぼけていた頭が怒りのため
にはっきりしてくる。そもそも啓治はマキという女とはあまり親しくなかったし、敢えて親
しくなろうとしていなかった。マキの言葉はいつも直截で攻撃的で、そして下品で不快だ。
そしてそれは言葉だけに限った話ではなかったので、いつも啓治は彼女を遠巻きに見るだけ
にしていた。そんなわけで今の今まで、啓治はそういう自分の態度をマキも薄々察している
のだろうと思っていたのだが、そうでもないのだろうか。だとすればがっかりだ。
 マキは啓治を罵るネタが尽きたのか、今度は自分のあまりに個人的な愚痴をぶつけてくる。
やれ職場の同僚に使えない馬鹿がいて、そのせいで自分は昨日一時間も残業させられたって
いうのに謝りもしなかった最低、だの、こないだ別れた彼氏がまだ未練があるらしくてしつ
こくしょーもないメールなんか送ってくるのがマジでウザい、とか。啓治は相槌をうつのも
面倒だったけれど、かといって全く反応しなかったらしなかったで話が更に長くなるのはわ
かりきっていたので、ろくに聞いてはいなかったけれど適当なところで、へえ、とか、ふう
ん、なんて言うあからさまに聞く気なんてないんだという合いの手を入れた。しかしマキは
やめる気配がなく、啓治も次第に苛立ちを募らせていく。
 口実を作ってこの電話を切ろうと思った。もう三十分もこんな電話に時間を潰されている。
 今まではマキという女にはあまり関わらないでいようと思っていただけだったのが、もう
はっきりとした嫌悪となっていた。一分だって、この声を聞いていたくなかった。
「これから人と約束があるんで出かけるから切るよ」
『え、じゃあ携帯にかけなおすから、移動しながら続き話そうよ』
「あーそれ無理」
『なんで』
 啓治は手をのばして、ローテーブルの上にあった携帯電話を掴むと、カーペットの上に置
いた。
 そして。
 
 
 ベキ
 
 
「踏んで壊したから」
 線の向こうで絶句するのが伝わり、啓治はその勢いで受話器を叩きつけるようにして忌々
しい電話を切った。
 ザマアミロ、と思って、中断された惰眠を貪るため、ベッドに飛び込み、目が覚めたら新
しい携帯を買いに行こうと思って、目を閉じた。
 
 
 
 
(20030111)
 
 
 
 
 
inserted by FC2 system