063伝染 
 
 
 
 
  
 皮の手袋を外した指で、紅(こう)はさらさらと自分の顔に滑り落ちてくる髪を止め、耳
にかける。それからその手を、さっきから自分をじっと見ている優菜の目の前でひらひらと
振った。すらりと伸びた綺麗な指。色気といやらしさのちょうど間まで伸びた爪には、濃く
塗った淡いピンクのマニキュア。こんなのが嫌味でもなんでもなく似合うような女の子を、
優菜は紅以外に知らない。
「起きてますよーだ」
「具合わるいかとおもったの」
「わるくないよ。普通」
 優菜はそれだけいって、もう大分湯気も上らなくなった湯飲みのお茶を飲み干した。温い
物がのどから下りていく感覚はでも、少し優菜の具合を悪くしたかもしれない。それほどに
冷え込みの厳しいこの学食で、しかしこんな華やかな女の子が薄汚れた席に座っている光景
は、ここで彼女と待ち合わせを提案した優菜をわけもなくすまないような気にさせる程度に
はちぐはぐなものだった。そう思うのはなにも優菜だけではなく、周りの人も紅をちらちら
と見ている。中には大口開けて紅にみとれているような男の子もいて、優菜は走っていって
その口をふさいで、ついでに目もふさいでやりたい衝動に駆られた。なんて顔して見てるの
よ、ととても不愉快な気持ちにさせられたので。
「ゆうな、どうしたの。顔が凶悪」
「…あんたの口ほどじゃありません」
 全く、とかなんとか呟きながら優菜は席を立って、コーヒーでいいね、と紅に確認すると
学食の中にある自動販売機へと向かった。この学食のメニューにもコーヒーはあるのだが、
ただ置いているだけというシロモノだったので、優菜は一度飲んだきりだ。
「ほら」
「ゆうなのおごり、ね」
「あーそーですよ。あとでご飯もおごらせてもらいますよ」
 手の中にある、紅の完璧なノートをひらひらとさせながら優菜はわざとぶすっとした顔で
そんなことを言ってみる。盲腸のせいで欠席していた時の宗教哲学概論の授業は単位は別に
どうでもいいのだけれど、優菜はその内容にすいよせられてしまって、本当は一分だって聞
き逃したくなかったほどだったのだ。紅とはその授業で出会った。それまでは、同じ文学部
にいるのは知っていたけれど、というだけだった。
 本当のことをいってしまえば、優菜は紅が哲学を専攻していると知った時、とても意外な
気がしていた。好んで難解で複雑なものを聴くようなタイプには到底思えなかったのだ。
 教室の中でも異色の存在だった紅はしかし、案に相違してほかの誰よりできがよかった。
紅が前期末出したレポートはそれはもうすごかったらしい。後期が始まった時、当の教授が
興奮した面持ちで紅をつかまえて、
「江波紅さんというのはあなたでしたか」
と声をかけ、たまたま側にいた優菜は、とてもついていけない高度なやり取りが繰り広げら
れるのを拝聴する羽目になった。夢中で早口で話す教授と、いつものおっとりのんびりした
紅との会話は、もうほとんど自分とは同じ次元の生き物ではないな、なんて感想を優菜にも
たらしたほどだ。
 そんな紅だったので、優菜はあっという間に紅を見直し、またなぜか自分に懐く紅と今で
はすっかり仲がいい。親しいという点でも、そして理解の確実さという点でも、紅のノート
は本当に頼りがいがあるのだ。紅本人はともかくとして。
「紅は、やっぱり小田先生のとこで卒論書くの」
「そうだよ。ゆうなはまずどこで書くの」
 こういう風に、紅の言葉はいつも厳しい。
「うーん、多分宮岡先生のとこで東洋史、か、佐倉先生のところで方言」
「器用貧乏になるよ」
「もうなってる…」
 紅が哲学を中心に授業をとっているのとは逆に、優菜は未だに腰が落ち着かないで、あっ
ちこっちをふらふらしている。演習を受けているのは東洋史と日本語学の方言学。どういう
つながりもないこれらの他にも、日本近代文学や心理学まで手を伸ばしていて、しかもどれ
も面白いものだから、三年の後期もそろそろ終わろうというこの時になっても、優菜は自分
の専攻を決めかねている。二人のいる大学は、その気になればなんだって専攻にしてしまえ
るといういい加減なところだったので、それがかえって優菜のような人間には仇となってい
たりするのだ。
「ゆうなのゆうは、優柔不断のゆう」
「いちいちきついよ紅…」
 紅を恨めしげに見ていた優菜だったが、しかし本当にそうなのでそれ以上はなにも言えな
い。全くどうしたものかと悩みながら、優菜はふと紅を見つめた。
「そういえば紅はなんで哲学にしたんだっけ」
 とてもじゃないけれど、結びつかない。
「まさか、最初からそのつもりだったの」
「うーんとね、一年の時ね、クラスを間違えて小野先生の専門の授業に一時間だけ出たこと
があるの」
「…すぐ帰ればよかったじゃん」
「うん、でもなんか、聞きたかったの」
 ほわりと、紅があどけなく微笑む。
「先生、すっごく必死でおっきい声で喋っててね。それでね、こうおっしゃったの。哲学者
はね、知に恋してるんですよ、って」
 紅の中からあふれたのは、もう言葉だけではなかった。素敵よねえ、というため息までが
優菜に伝わって、それは優菜の胸をもときめかせる。
「そして、私も恋したいなあと思ったの」
「…知に」
「そう、知に」
 ふふふ、と本当に幸せそうに紅は笑って、ほんのり頬を染めた。
「恋か」
「うん、恋よ」
 なんだか優菜はとても切ないような気分になる。
 優菜は紅の、決して達筆ではないけれど丁寧にまとめられたノートや、一心に教授の話を
聴く真剣なまなざしを思い浮かべて、あれらはでは恋のなせる業だったのかと不思議なくら
い納得した。 
 そのうえ目の前の紅は本当に掛け値なしにかわいい。
 まったくなんて恋なの、と優菜は顔を崩して、こぼれそうになった涙を笑いのせいにした。
  
 
 
 
(20030116)
 
 
 
 
 
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