067コインロッカーと人差し指
 
 
 
 
 
 体育館を出たその瞬間に、わけもなく足が止まった。
 まだ生乾きの髪がぱさりと揺れて、佳奈子はとっさに後ろを、自分が今出てきたところを
振り返る。なんだろうか、と思って、プールを出てからの自分の行動をたどってみた。なに
かしなければならないことがあったのだろうか。それともなにか、忘れ物でも―――
「あ」
 そうだ、忘れ物だ。着替えを預けていたコインロッカーは、使用後は百円がそのまま戻っ
てくるのだったが、それを取りわすれたのだ。あれほど気をつけなければならないと思って
いたのに。ほんとに自分の頭は頼りにならなくなった。体が衰え始めると頭も比例して衰え
るらしい。
 百円くらい、とも思う気がないではなかったが、でも諦めるのもそれはそれでばからしい。
こうやって毎度毎度忘れてそのたび諦めてしまえば、この先一切執着しなくなりそうで、そ
れもイヤだった。できたばかりのこのプールは綺麗ではあるがそれに見合っただけの値段で
ある。ただでさえ高い使用料に、百円を上乗せする気はない。
 受付に事情を話し、中に入れてもらう。幸い出たばかりだったので、係りのおじさんはす
んなりと佳奈子を通してくれた。
 さっき佳奈子が出たときには、それほど人がいなかった。それはもちろん、人の少ない真
昼を狙って来ているからなのだが、それも佳奈子がわざわざ戻る気になった原因の一つ。お
そらく百円はまだあのロッカーにちょこんと納まっているだろうから。
 重いドアを開け、サンダルを脱いで更衣室に入る。そこではただ、有線の音楽が小さく流
れるのみ。何列か並んだロッカーを越えて、佳奈子はさっき自分がいたプールの入口近くの
ロッカーへと歩く。と、人影が見えて、佳奈子は知らず体が強張った。
 それは、小さな男の子だった。
 ここは女子更衣室だよね、という動揺ももちろんだが、そのまだ幼い子どもが、一心にな
にかを探しているその光景が、佳奈子の動きを止めた。
 いや。
 なにか、だなんて。
 男の子の目が、さっき佳奈子が使っていたロッカーに向けられた。彼にとっては少し高い
位置にあるそれを、しかし彼は見落とさなかった。
 まだあどけない人差し指で、ちょこんと戻り口に鎮座している百円玉を自分に向けてはじ
くように取り出し、うまく取り出すとぎゅっと握り締め、嬉しげに笑った。それが本当に幸
せそうだったので、佳奈子はわけがわからなくなる。どうすればいいのかしら。
 しかし次の行動を決めたのは、佳奈子ではなく少年のほうだった。
「・・・わ!」
 それまで百円に全身全霊を向けていて、全く佳奈子の存在に気づかなかったらしいその少
年が、次のターゲットを探そうと目線を変えたら、百円ではなく佳奈子を見つけて小さく叫
んだ。
 
 
 少年は名前を正人といって、身分は小学二年生であるらしい。
 体育館を出たところにある自動販売機コーナーでカップのジュースを飲みながらポツリポ
ツリ聞き出したところによれば、なかなか大変な身の上であるらしかった。
「あんなこといつもやってるの?」
「・・・ときどき」
「こういう、自動販売機なんかもあさってるの?」
「・・・うん」
 親御さんはなんて、と続けようとして、佳奈子は口をつぐんだ。正人に全く無関心な父親
と母親。育児放棄、という言葉が佳奈子の脳裏をかすめる。事実そうなのかもしれない。だ
って正人は、今日朝からなにも食べてなくて、コインロッカーから集めたお金で食事をしよ
うと思っていたというのだから。
「プールにはどうやって入ったの?」
「回数券持ってるやつがいて、もらった」
 もらったというが、一体どういうもらい方をしたものか。疑うのはよくないのかもしれな
いが、急に居直ったようになったその態度では、仕方のないことだと思った。おそらく佳奈
子が思ったようなもらい方をしたのであろう。普通それはもらったとはいわないのだが。
 知らずため息をついていた。
 手馴れているし、目の付け所も明らかに子どものものではない。そうかと思うと、佳奈子
に罵声を浴びせて逃げ出したりもしないで素直に話に応じる。ふてぶてしくて肝が据わって
いるところもあるようだが、そればかりでもなく、幾許かの羞恥心やプライドもあるらしい。
 子どもというのは、こんなに複雑な生き物なのだろうか。
 正人のおなかが鳴る。考えるのも馬鹿馬鹿しくなってきた。
「ハンバーガーでいいならおごったげるから、おいでよ」
「・・・オレ、牛丼食べてみたい」
「そりゃ安上がりだわね」
 苦笑しながら佳奈子が手を伸ばすと、正人は素直につないできた。しかし慣れないのか、
指をもぞもぞさせている。
 不意に、涙が湧き上がってきて困った。
 そこでやっと佳奈子は、自分はずっと泣きたかったのだと知ったのだった。
 なんのためにかはともかくとしても。
 
 
 
 
(20030801)
 
 
 
 
 
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