069片足 
 
 
 
 
 ぱたぱたと、薄いグレーの布が揺れている。
 風の強い日は彼がそこに入れるものをもたないズボンの片側はむごいまでにはためき、
そしてごく自然に風の流れに目を細める本人とは別の意味合いで、正木の目を細めさせた。
そんな顔をしながらなお彼から視線をずらさないのは、正木の誠意でもあり。どんなとき
でも自分の足と、一本の細い杖だけで立つ宮川を、正木は尊敬すらしていた。
「風車が回ってる」
 風力発電の実験のために屋上に小さな風車を数機乗せた向かいの校舎を見ながら、宮川
はポツリとそう呟いた。その声さえ流してしまわんとするほどに、風はますますきつくな
る。
 ぐらりと。
 かしいだのは、正木の上半身だった。ぱたぱたと風に布をはためかせながらも、宮川は
びくともしなかった。
 重機でも動かしているのかと思うほどの騒音が、風車から発せられる。正木を揺らがせ
たのは、風ではなくてこの音だったのかもしれない。どうして宮川はそんな姿になってな
お、これほどしっかり立っていられるのだろう。
「・・・こんな強い風の日に」
 ふわりと身を宙に浮かせたかのような軽やかさで、宮川は正木に向き直る。さっきまで
は屋上に根でも生やしたのかと思うほどだったのに、今は風に吹き上げられてしまいそう
だった。そのまま声を風に乗せるようにして正木に伝えた。
「こんな強い風の日にでもしっかり立っていられるんだったら、どこでだって立っていら
れる気がするんだ」
 
 
 
 正木が宮川と出会った十八の春には、もう宮川の左足は失われたあとだった。
 まだ宮川がこの学校の学生だったとき、実習中に起こった震度六の地震。実習室にあっ
た大きな機械がぐらりとかしいで、そして、宮川の足を潰した。逃げる周囲。宮川は救出
されるまで、気絶することも叶わずに激痛に耐えて震えていたのだと、二人で飲みに行く
ようになったころにポツリポツリと話してくれた。そして宮川が、入院とリハビリのため
に一年、そして進学のために一年、遠回りをしたことも。
『・・・これからもタメ口きいていいだろ』
 そんな馬鹿なことしか言えなかった自分。宮川も、正木を馬鹿だと思ったのかそれとも
面白かっただけなのか、なんともいえないいい声で笑った。
 あれからもう、五年が経とうとしている。
「いい学校だろ、オレの母校」
 海の近くにあるこの実業高校は風が強くて、正木には辛いと気づいたのか、宮川がやっ
ともう戻ろうかとうながした。危なげなく階段を下りながら、でもオレがいたころとは全
然違って、どこも綺麗で新しいけどな、とぼやいて。
「せーんせー、やっと見つけたー。ノートチェックしてください」
 一階に下りるなり、女子生徒が宮川めがけて走ってくる。
「ちゃんとやったのか?」
「やったってば。あ、はい、ペンもあるよ」
「準備いいなあお前」
「だってバスの時間が来るんだもん」
「・・・ほらよ。今度からちゃんと出せって言った時に出せよ」
「わーかったって。じゃあね、バイバーイ」
 宮川に手を振りながら、やっと気づいたというように正木にもぴょこんと頭を下げて、
女生徒が駆けていく。慌しいやりとりが終って、宮川は目を白黒させている正木をにやに
やしながら振り返っ
「なんて顔してんの」
「いや・・・若いって勢いあるよなあ」
 それも本心だったが、正木が驚いたのは宮川にだった。自分といたころの宮川は、明る
いのだけれどいつもどこか落ち着いてて、穏やかに話した。あんなにぽんぽんものを言う
ところは、実は初めて見たのかもしれない。
「お前が本当に来てくれるとは思わなかったよ」
 唐突に、宮川は以前の宮川に戻った。静かな笑顔、確かな声。めまぐるしさに、正木の
体がまた揺らぐ。
「・・・行くって言ったら、行くんだよ俺は」
「そうだったな」
 軽く笑って、宮川は廊下の壁にもたれた。正木はわけもなく緊張する。
「あれ、宮川先生、まだいたんですか?」
「まだいたんですか、ってことはないでしょう、岡崎先生」
「いやだって、明日でしょう、式。早く帰らなくていいんですか?」
「ええ、もうあとは当日を待つばかりで・・・それに大学からの友人が来てくれたから、
学校を案内してたところだったんです」
「ああ、それはそれは」
「どうも、正木です。すごい学校ですね」
「ははは、入れ物はすごいんですが、なんせまだ出来たてで、使いこなせないんですわ」
 中年の教師はガハハと笑って、まあゆっくり見てやってください、と去って行った。と
はいえあらかた見学し終わったあとだったので。
「オレらも帰ろうか」
「そうだな」
「独身最後の夜だし、パーっとな」
「あんまり羽目外すと、式に遅刻するぞ」
「そんなアホな」
「俺はギリギリだった」
 嫁に顔こそ殴られなかったが、みぞおちには三日消えないグーの跡がついた。
「・・・正木サイテー」
「お前も同じ目に遭わせてやる」
「いや、それは勘弁・・・」
 依然高速で回り続ける風車の音が、校舎を出る二人の会話のじゃまをする。
 しかし、二人の声が揺れることも流されることも、もうなかった。
 
 
 
 
(20030510)
 
 
 
 
 
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