081ハイヒール
 
 
 
 
 舗装の悪い歩道にひっかけたのか、一緒に歩いていたアサミが小さな悲鳴をあげ、そして
たたらを踏んだ。とっさに私の腕につかまったアサミは、なんとか転ばないですんで、だけ
ど、
「ああ、カカトが」
と、世にも情けない、そのくせどこか苛立ったような顔をして、ぱきりと離れてしまったハ
イヒールのカカトを、恨めしく見つめている。
 こんなにきれいに離れるなんて、とあっけにとられている私をよそに、体勢を立て直した
アサミは、もう、とかなんとか言いながら、歩道の裂け目に取り残されたカカトを取りに戻
る。私の腕からアサミの手が離れた。
「これもうだめだよねえ」
 カカトの取れた元ハイヒールを脱ぎ、そして片足でバランスを取りながら立つアサミが、
無駄だと思いながらも残念そうに外れたカカトを元あった位置に戻そうとしてみたりしてい
るけれど、もちろんつくはずもない。
「泣きっ面に蜂ってこのことかな」
 こっそり私が思っていたことを先にアサミに言われて、私は多分一瞬変な顔をしてしまっ
たと思う。だけどアサミは未練がましく壊れたハイヒールをいじっていたので、私の示した
反応には気づかなかった。
「それじゃ歩けないでしょ、どうするの?」
 これから帰宅するだけとはいえ、よりにもよってこんな高低差のある靴では満足に歩くこ
ともできないに違いない。無理に歩いても、明日腰でも痛めるのが関の山だし。かといって
こんなに遅くなっては、靴屋なんて開いてない。サンダルでもいいから売ってないかな、と
きょろきょろあたりを見回すけれど、あいにく住宅街に入ってしまっているので、スーパー
もコンビニもない。あれ、でもコンビニに履物って売ってたかな?
「いいよ、もう」
「いいよって」
 じゃあどうするの、といいかけた私は、もう片方も脱いだアサミにぎょっとした。まさか
裸足で帰るわけじゃないでしょうね、と問うより先に、アサミはそのハイヒールを持って大
きく振りかぶった。
「きゃあ」
 ばき、とか、ぱき、というような音を立てて、歩道脇のおうちを囲む少し背の低いブロッ
ク塀の上に引っ掛けるように叩きつけられたそれは、しかし完璧にカカトと靴を外してしま
えず、だからアサミはもう一度同じことを繰り返した。今度はきれいに離れ、しかも外れた
カカトは塀の向こうへと飛んでいってしまった。おうちの方、ごめんなさい、と私は心で謝
るけれど、アサミは、
「これでいいわ」
なんて言ってさばさばした顔でハイヒールだったものを履いた。手の中にあったもう一つの
カカトも、地面に叩きつけて。そして、静かに涙を流した。今日二度目の。
 化粧を全て洗い流したアサミの顔を流れる涙が、月の光を弾く。
 いつもきれいにお化粧して、オシャレして、そんなアサミの、驚くほど子どもっぽい素顔。
 さっきまでアサミの彼氏だった人は、アサミのこんな顔をちゃんと知ってたのかな。
 こんなにこんなに、アサミはかわいいのに
「……」
 無性にその泣き顔にキスしたくなったけれど、そういうのはダメかなあと思って、私はな
んとか我慢した。アサミがキスして欲しいのは私じゃなくて、彼氏だった人だ。今はまだ。
 ああでも本当にかわいいな。
 見つめていると我慢できなくなっちゃいそうだったので、私はアサミが泣きやむまで、道
路に転がったカカトを見ていた。
 
 
 
 
(20030107)
 
 
 
 
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