086肩越し    
  
 
 
 
 
 唇が合った。
 重なった。彼の唇が、わたしの唇に触れている。
 わたしは本当にびっくりしていた。
 まず、彼はわたしの、いわゆる恋人ではない。友達、というには彼のことを知らない。
 知らないどころか、たった数時間前に出会ったばかり。
 仲のいい友達にわたしを気に入っているという彼を紹介されたのはいいんだけれど、その
友達は自分の彼と(こちらは恋人)さっさと遊びに行ってしまい、残された彼とわたしは、
なんだかぎこちなくおしゃべりをしたり、手持ち無沙汰であまりおなかも減ってないくせに
喫茶店に入ってケーキなんて食べてみたりして、そんな風に数時間を過ごして。
 だって彼はわたしを知っているみたいだけど、わたしは彼を知らない。嬉しげにわたしを
見るその視線に、どう応えればいいのか、わたしにはわからない。
 彼の目は、わたしの胸をざわつかせる。
 そういえばなまえ、したのなまえなんていうんでしたっけ。
 いたたまれないあまりこんな失礼な質問をしようと、少し後ろを歩いていた彼を振り返っ
たら、思わず体が震えるほど彼が側にいて。
 わたしどうして歩くのやめてしまったんだろう。歩き続けながら聞けばよかった。そうな
ら、さりげなく体を離すことだってできたのに。これじゃ、もう。
 そんなことを思ったのなんてきっと一秒もなくて。
 彼はわたしにキスをしていた。
 
 
 
 とても優しい、キスを。
 
 
 
(20030105)
 
 
 
 
 
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