孤 単

 

 

 
 いつもと同じ、目覚ましが鳴る十分前に目を開けて、伊角はもぞりと起き出した。
一時間の時差というものはさほど大きくもないが、やはり体は日本の時間で動き出
す。少しづつ慣れてきてはいるようだったけれど、日本で起きていた時間になると
意識が徐々に浮上し始める。それ以上は眠れないので、諦めた伊角がベッドから出
るのはいつもこの時間だった。
 しかしこの朝にはいつもとは違うことがある。部屋の主がいない。
(地方で棋戦があるから、二三日留守にするよ)
 この部屋を一人で使えるよ、と楊海は少し妙な顔で笑って、そうして昨日簡単な
荷物だけで出かけていった。見送りなんていいよという楊海に、それでも棋院の入
口まで付き添った伊角だったが、それは楊海の言った、
(一人でいられるよ)
というセリフにとても動揺した自分を取り繕うためだったのかもしれない。
 あの飄々とした楊海に、同じ部屋でどこか緊張したままの自分に気づかれていた
のだとすれば、それはとても申し訳ないことだと思った。
 楊海との同居にはもちろんありがたいこともたくさんある。楊海は毎晩のように
自分と碁を打ってくれるし、言葉だってほとんど不自由を感じないくらいに通じる。
生活も、見えないところまで気を遣ってもらっていることくらい伊角もわかってい
る。実際、外国でこれほどの環境が得られることはまずありえない。そう、伊角は
とてもついているのだ。
 だが、どれだけ日本語ができようがやはり楊海は外国人だ。それに自分より年上
だ。そんな相手に、まさか和谷たちに接するときのようなわけには行くまい。 
 それに伊角は他人と生活するのは、これが始めてである。外国人だから云々より
先に、要は人との共同生活に神経が参ってしまっているのだ。
 楽平と対戦するまではそのことで頭がいっぱいだったのだが、それが終わり、少
し気がゆるんだころ、それまで気にも留めてなかったはずのストレスや疲れがどっ
と出て体調を崩した。
 せっかく楊海に、感情をコントロールする、という考え方を教えてもらったとい
うのに、そううまくはいかないらしい。
「イスミクン、×××楊海×××?×××、好不好?」
 午前が終わり、昼休憩になると、そのとき対局していた範という同年代の子がな
にか言ってくる。伊角にかろうじて聞き取れたのは、自分と、そして楊海の名前。
しかし、その言葉と同時に、彼が自分と、そして伊角を指差して、ものを食べるジ
ェスチャーをしたので、ああ食事を一緒にとろうといってくれているんだ、と気づ
いた。誘ってくれたことと、碁以外のことで相手の言うことがわかったのが嬉しく
て、伊角の顔がほころぶ。
「好。謝謝」
「不用謝!」
 伝わったことにほっとしたのか、範はそう言って、にこにこ笑った。それを見て
いたらしい数人も加わって、昼食はなかなかにぎやかなことになった。とはいえ会
話は全く順調でなく、食事中ゆえ筆談というわけにもいかず、ジェスチャーが八割
方になりはしたけれど、それでも伊角にとっては新鮮だった。プロのなかでも選り
抜きのメンバーばかりが集まっているというのに、普段の彼らはこんなにも快活で、
そして伊角に向ける笑顔や好奇心はとても無邪気だ。
「伊角クン、楽シソウダネ」
 あまりのにぎやかさに、食堂に昼食をとりにきた李先生がわざわざ伊角の近くに
寄ってきた。
「あ、李先生、こんにちは」
「李老師、イスミクン×××××!×××!」
「え、え?」
 数人が口をそろえて李先生に伊角のことでなにかを伝えて、李先生が満足そうに
それらに答えている。そして顔中疑問符にしている伊角に、ざっと通訳してくれた。
「伊角クンハトテモ真面目デ、ミンナ感心シテマス。ソシテ気持チガ穏ヤカデ優シ
イ。ミンナ伊角クンガ好キデスヨ」
 そう思っているのは自分もなんだよ、というかのような李先生の笑顔に、にこに
こしながら自分を見ているみんなの視線に、伊角は全く照れてしまい、頬に赤味が
差す。それを目ざとく見つけた範に指摘されて、
『伊角くんは恥ずかしがり屋だなあ』
とまたひとしきり場を沸かせることになった。
 そのやり取りで気分がほぐれたのか、午後の対局はなかなかいい碁が打てた。単
に勝てたからというわけではなく、打つのが楽しい、そして見返しても嬉しくなる
ような、そんな碁。
『イスミクン!今日楊海さんいないんだろ!?だったらオレと打とう!!』
 片づけを終えて部屋に戻ろうとした伊角を、楽平がさっさとつかまえる。伊角の
腕をつかまえて、今すぐ打とう、と片づけたばかりの碁笥に手をのばそうとする。
「レェピン…ちょっと待って、ご飯食べてからでいいだろ」
『夕飯までまだ時間あるよ!10秒の早碁でいいから、打とう!』
「レェピーン…」
 二度目の対局からこっち、似たようなやり取りを繰り返している楽平とは、お互
いにさほどコミュニケーションに不自由を感じない。端から見れば、中国語と日本
語でなにを会話しているのだ、とコントめいてていささか笑えるのだが。
『楽平、伊角さんだってちょっとは休まないと。そんなにせっついちゃ悪いよ』
 一日の終わりだというのにまだ始まったばっかりのように元気な楽平に苦笑しな
がら、見かねた趙石が伊角から楽平を引きはがしてくれる。
『趙石!だってさ、でもさあ』
『楊海さんが帰ってくるのあさっての夜だろ。それまでまだ時間あるんから、なに
も今すぐじゃなくったっていいだろ』
『…うん』
 どうやら趙石が楽平をなだめてくれたらしい。十二歳の楽平とは一つしか年が違
わないというのに、趙石は楽平に比べてとても落ち着いている。それとも楽平が子
どもっぽいのだろうか。
『イスミクン、早くご飯食べてさっさと打とうぜ!』
 とりあえずここのところは引き下がることにしたらしい楽平は、二人を置いて訓
練室から駆け出した。無意識に伊角からほっとした息がこぼれ、趙石がくすくすと
笑う。
「あ、いや、そういう意味じゃなくて、ええと、レエピンと打つのは好きだけど、
今すぐはちょっと大変だなあって…」
『うん、うん』
 本当に伊角の言うことがわかっているみたいに、趙石は相槌を打つ。いや、きっ
と伝わっているのだろう。伊角の表情を見れば、どういうことを言っているかは明
らかなのだし。
「…趙くん、謝謝」
『ううん。今日は楽平を止めてくれる楊海さんがいないから大変でしょ』
「うん…そうだね」
 趙石と別れ、伊角はそのまま部屋に戻った。303号室。本当なら楊海だけの部
屋。
 顔を洗って、ベッドに寝そべる。靴を脱ぐのが面倒だったので、足はベッドの端
からはみ出させて。そして目を閉じると、不意に部屋の主の声が頭に響いた。
(セーロガン?)
 数日前、どうにもおなかが痛くてとにかく薬を飲まなきゃと部屋に戻るなり正露
丸を取り出したら、楊海にそれはなんだといわれた。その瞬間、しまった、と思っ
た。体調を崩し薬を必要としている自分を、楊海に見せるべきではなかった。
 一瞬のうちにそれだけ考えて、出た結論は、やはりこの腹痛は慣れない異国での
生活のためだけじゃないということ。
 楽平との二度目の対局を終えてから、楊海の様子が少し変だった。
 それまでにはなかった、張り詰めたような、いや、どこかピリピリした雰囲気を
彼はまとっていて、それを引き起こしたのはどうも自分らしいということに、伊角
は当惑していた。一体なにが原因かは少しもわからなかった。
 楊海の伊角に対する態度が変わったというわけではない。言動は相変わらずだっ
たし、親切さも気遣いもそれまで通りだ。嫌われたとか怒らせたというわけでもな
いようだった。だけどなにかが決定的に違った。
 いたたまれないまま部屋で薬を飲んだ。その間楊海は少し変な顔をして伊角を見
ていたので、もしかしたら伊角のわずかな自分に対する怯えに気づいてしまったの
かもしれない。
 その視線から逃げるように、薬の臭いが立ち込める部屋を換気するという口実で
窓辺に立った。楊海がパソコンに向き直った気配を背中で確かめ、窓を少し、開け
た。空気を入れ替える時は、大きく開けるよりその方がいい。
 そうして部屋を満たす複雑な空気を洗うように入ってきた風に、伊角は思わず言
葉を漏らした。自分の中のやましさもなにもかもを運び去るような気持ちよさ。
 楊海から、妙な雰囲気が消え去ったのはこの瞬間だった。
 しかし伊角がそれに安心することはできなかった。
 今度は楊海自身が妙になったからだ。
「イスミクン!!×××!」
 いつの間にか眠っていたらしく、ドアをだんだんと叩く楽平の声で目が覚めた。
どうやら食事に誘いに来てくれたらしい。きっと食休みもなしで対局させられるな、
と思いながら扉の向こうの楽平に声をかける。
「レェピンちょっと待って。今行くよ」
 伊角がドアを開けるや否や、小柄な体が飛び込んできた。伊角が部屋を出てくる
のさえ待ちきれなかったらしい。
『イスミクン、早く早く!』
「ちょっと待って、鍵を…」
 いつもなら苦笑しながら楽平に引っぱられていく自分を見送ってくれる楊海が、
今日はいない。
(一人でいられるよ)
 自分で部屋に施錠しなければならないことが、なぜだかひどく淋しかった。
 
 
 
 つづく
 
  
 
 
 
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