誘 蛾 灯



 
 ばち、と頭上で音がした。
 虫が焼けた匂いがするような気がして、反射的に下を見た。誘蛾灯から滑り落ちた
虫が、数え切れないほど転がっている。あまりいい気分はしない。
 しかしそんなものに目をやったのはほんの一瞬で、花道は足を止めることさえせず、
コンビニの中に入った。店員の声や、客の声。明るい蛍光灯の光。にぎやかな音楽が
満ち溢れている店内は、暗がりから入って来たものの目をくらませる。だがそんなの
は一瞬で、溢れかえる商品や、人の声は、花道をほっとさせた。初夏の月無し夜は人
を不安にさせる。
 部活の後にも個人練習をしていたせいで、家の側にあるこのコンビニに着いたとき
にはもう9時になろうとしていた。こんな時間だというのに人はわりあい多く、自分
と同じくらいの年の女の子から、小さな子どもまでいたりする。おかしな空間だ。
 花道はそれらには目もくれず、まっすぐに弁当の棚へと向かった。
 夕飯を自分で作る気は最初からない。もともとそれほど料理ができるわけでもない
上に、マメでもないので、バスケ部に入ってからというもの外食生活が続いている。
いつもは顔なじみの飲食店をぐるぐると回っているのだが、時間があまりにも遅い時
にはコンビニ弁当に切り替える。これだと下手な外食より高くつくので財布の中身は
ちょっと心細くなるけれど、あと三日もすれば自分の貯金を管理してくれている叔父
が銀行にお金を振り込んでくれるので、それまではなんとか持つだろう。
 自炊をすればいいのだろうが、ケンカ以外にろくにすることもなかった中学時代な
らまだしも、朝も夜もバスケ三昧の花道にそんな余裕などない。できてもせいぜい米
を炊いてレトルトカレーをかけるくらいのものだ。それに最近はろくに家で食事をし
ていないので、今自分の家に米があるのかどうかさえも花道は知らない。
 弁当の前でさんざん迷った揚句、海苔弁当とたらこおにぎりとホットサンドをつか
み、ついでにインスタントのうどんも取って、レジに乗せた。
「・・・ピッ、ピッ、ピッ・・・」
 店員が値段を読み上げる声と、機械がバーコードを読み取る音。
 花道はズボンのポケットから裸のままつっこんでいたお金を取り出す。ポケットの
中で、小銭がチャリチャリと鳴った。
「・・・円のおかえしです。ありがとうございました」
 温めてもらった弁当とサンドイッチを受け取り、花道はドアを開けて、また暗い外
へ出た。
 ばちり、とまた頭上で音がした。
 今度は花道は下ではなく、上を見た。
 青白いような光りが、そこにあった。
 誘蛾灯の中には大小の虫が貼り付くように死んでいて、とても汚い。
 そしてひっきりなしに、バチ、という音がする。小さな虫がぶつかれば小さな音が、
大きな虫ならば大きな音が。
 ふと。
 花道の親指の先ほどの蛾が、ふらふらと誘蛾灯の周りを飛んでいた。
 危ない。
 わけもなくそんなことを思った。蛾は誘蛾灯に近づきそうで近づかない。しかし、
一体どうしたというのか、突然まっすぐにその蛾は誘蛾灯へと向かい、阻む間もなく、
自分の体と誘蛾灯で音を立てた。
 抗うことをやめれば、こうなる。しかし蛾は、どうしたってあの光に抗いきること
ができない。 
 花道はもうそれを見ているのが嫌になり、背を向けて闇の中まっすぐ自分のアパー
トへ向かった。路上には街灯がこの月無し夜にわずかの明かりをもたらしていて、そ
のぼんやりとした白い光にも、虫は集まっていたけれども、さっきほどの不快さはど
の光にも無かった。汗がにじむのは、決してこの暑さのせいではない。
 アパートに戻り、花道は荷物も降ろさずに部屋の真ん中にぶら下がっている蛍光灯
の紐を引く。狭い、六畳ほどの部屋はその光で十分明るくなる。
 それを確認してから、花道は荷物を下ろし、ちゃぶ台にコンビニで買った夕食を置
いて、着ていた学生服を脱いだ。それでもじんわりと暑い。
 この体にまとわりつく全てを振り払うように、花道は服を脱いで、台所に行くと、
冷蔵庫の中にあった牛乳をパックのまま飲んだ。火照る体の中を、きついほどに冷た
い刺激が落下していく。だけど止まらず、花道はパックにあった全てを自分の体の中
に収めてしまった。
 人心地ついて、花道は部屋に戻り、畳の上にじかにあぐらをかいて弁当のビニール
をはがす。
 しばらくもくもくと食事をする。もともと大食らいなのと、練習や自主錬の激しさ
もあって、空腹で腹が痛いほどだ。いつも部活の前にはそれなりに腹に入れているの
に、一体どこへ消えてしまうというのか、自分の体のことながら不思議でもある。
 食事ももう終わろうかというころになってから、音がなにもないのにようやく気づ
いて、花道はテレビのリモコンをつかんで、電源を入れようとした。だが、その指が
びくりと止まる。
 こつ、と頭上で音がした。
 畳の上に、なにやら影が落ちている。
 花道が顔を上げたとき、その影の主は蛍光灯に何度も何度も自分の体をぶつけてい
た。大きな羽をはばたかせて、弾かれても弾かれても、何度も、何度も。
 こんな大きな蛾が、どこから入ったというのだろう。花道はそう思う一方で、さき
ほどの、コンビニの入り口近くに置かれていた誘蛾灯を思い出さないではいられなか
った。
 この蛍光灯には、蛾を殺すほどの力はない。せいぜい、そのわずかな熱にさえ耐え
られない小虫が、畳の上に落ちるばかりで。
 こつ、こつ、という音は続いている。
 花道は不快さをこらえきれず、ほうきを持ってきて、その蛾を追い払う。触るのは
気持ち悪いような気がしたので、暴れる蛾を叩き伏せるようにしながら、窓から追い
出した。月無し夜なので、すぐに蛾の姿を見失う。
 食事は、もう食べる気分になれなかった。
 とりあえず手つかずだったホットサンドを冷蔵庫に入れて、あとはみんな片付けた。
幸いほとんど残っていなかったけれど。
 テレビを見る気にもなれず、花道は畳に寝そべる。さっきまで蛾がまとわりついて
いた蛍光灯を見た。小虫はまだ傘や蛍光灯のあたりをうろうろしていたけれども、蛾
ほどは花道を不快にはさせなかった。
 今日は月無し夜だから。
 蛾はまた新しい光を求め暗闇をさまようのだろう。
 帰り道に見た街灯か、別の誰かの家の明かりか。それとも。
 何度も何度も蛍光灯へぶつかっていた蛾が、あの誘蛾灯へと突進し、そしてとても
大きな音を立てて焼け落ちる様が花道の脳裏へと浮かび、その生々しい想像は花道の
目を閉じさせるほどだった。
 誘蛾灯には、蛍光灯のような容赦はない。
 何度もぶつかることなどできない。たった一度ぶつかっただけで、命を奪われてし
まう。しかしそれはまるで自分で望んだことかのようで。
 堕ちるのがわかっていて、罠にはまる。罠に近づかなければいいのに。背を向け、
投げ出し、逃げてしまえばいいのに。
 逃げてしまえるならいいのに。
 自分を害するとわかってて、近づかなくてはいられず、そしてぶつからないではい
られない。おろかだと思う。蛾も、そして、自分も。
 嫌いなら近づかなければいい。一緒にいる時間をもたなければいい。さっさと帰れ
ばいいのに、こうしていつも遅くまで自主練習をしてしまう。
 朝だっていいのに、昼休憩にだっていいのに。
 認めてしまえばこんなわかりやすいことなどない。
 朝も、昼も、流川は体育館にいないのだ。ただそれだけなのだ、自分が夜に居残る
理由など。
 体育館という、大きな、しかし外とは隔絶されたかのような空間で、バスケットを
しながら、流川に文句を言う。野次を飛ばす。時々殴りあう。
 ぶつかる。何度もぶつかる。まるであの蛾のように。
 しかし流川は自分を焼き焦がしはしない。文句には反論し、野次にはにらみをきか
せ、殴られれば蹴り返すけれど。
 だから何度でもぶつかっていられる。途方もなく長い間、ぶつかっていられる。
 しかしそれは錯覚だ。
 あの蛾だって、花道が放っておけば、そのうち弱り、死んでしまっただろう。
 そんな風にいつか自分も、流川の前でくずおれてしまうのではないか。
 ならばいっそ。
 誘蛾灯が蛾を焼き落とすように、自分を焼き焦がしてしまってほしい。
 そうすれば全てが終わるから。
 なにもかも、終わるから。
「・・・・・・」
 いっそ甘くさえあるそんな想像に、花道は目を閉じたまま少し口元をゆがめた。だ
けどすぐに、その口からは鋭く息を吸う音が漏れる。都合のいい夢想は、人を酔わせ、
そして苦しめる。
 のろのろと起き上がった花道は、蛍光灯の紐を引いた。
 一瞬で真っ暗になったその部屋を出て、花道は次の間に入ると、もう明かりをつけ
もせず布団の中にもぐり込む。
 強引に目を閉じると、頭の中で、ばちり、となにかがはじけたような音が響いた。 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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