没 想 到
 
 
 楊海がお土産にとあげた錦上添花を気に入ったらしい伊角は、それからも時々自
分で淹れて飲んでいる。部屋に楊海がいるときは楊海の分も注いでくれるので、実
は最近お茶などあまり飲むことがなくなっていた楊海も、ありがとうといって飲ん
でいた。水があまりよくない北京では、お茶にしたところで故郷の雲南に比べれば
さほどおいしくもないのだが、伊角がにこにこと当たり前のようにカップを渡して
くれれば、それを断れるわけなどない。どころか、こんなに気に入って嬉しげに飲
んでくれるのであれば、ほかにもなにか面白いものを、なんて思い始めてさえいる。
 そしてその一方で、伊角がこの珍しいお茶に気をとられて、自分の様子にまであ
まり注意を向けていないことに安心してもいる。そのために贈ったわけではないけ
れど、それを期待する気持ちはいくらかはあったのかもしれない。
 しかしどのみちごまかせるのはうわべだけ。
 自分の心の中にはなにも特別なことは起こっていないのだと、必死でそんな振り
をしても気がつけば伊角を目で追っているのだ。それは彼が側にいればずっとだっ
たし、いなければ探しに行ってまで彼を見ている。棋戦のために行った南京から、
飛行機を待てずに無理をして切符を取り、寝台車で帰ってきたりしている。
 こんな調子ならば、伊角に気づかれないほうがおかしいのかもしれない。
『救いようがないな』
 ぼそりとつぶやいた言葉に、近くにいた孫世紅が
『誰のこと?』
と問うてくるが、それに応えるだけの気力もない。孫もさほど気にした風もなく、
また伊角と趙石の対局に目を戻す。この二人が打つのはこれで三度目。今回はなぜ
か伊角が明日の昼食をかけている。趙石が勝てば、マクドナルドでおごらねばなら
ぬらしい。しかし伊角が勝った場合のことはまだ決まってない。なにかを賭けて碁
を打つことに慣れていないので、とっさにほしいものが浮かばなかったのだ。
『趙石にしちゃ遠慮してるよね』
 いつもは容赦なく人の服やらCDやらを勝って奪っていく趙石だったが、さすが
に伊角が外国人であることや、プロではないことに遠慮したのだろう。自分たちに
とってなにかを賭けて打つ碁はありふれた娯楽のひとつだったが、伊角にはそうで
はないのだから。
 しかし趙石はなかなか手強い。若手のなかでも五指には入る。現に盤面は趙石優
勢で、このままでは伊角はマクドナルドで趙石に腹いっぱいハンバーガーを食わせ
てやらねばならなくなりそうだ。
 楊海は盤面から伊角に視線を移した。もっと苦しげな顔をしているのかと思った
が、意外なことに伊角は無表情だった。感情も思考もなにもかもを止めたような。
そして無意識にだろう、碁笥からひとつ、石をとって。
『ん』
 なかなか面白いところに伊角は打った。趙石は意図が読めないらしく、珍しく眉
根を寄せている。もしこれが自分のヨミ通りに進むのであれば、伊角はこの盤面を
ひっくり返せる。
 そのまま盤面は進んだ。徐々に伊角の狙いがわかってきたらしい趙石が、それを
阻もうとする。しかし伊角も負けていない。楊海が予想した通りに伊角は石を並べ
て、そして。
『…趙石の負けだ』
 周囲に、ざわざわした空気が走った。負けた趙石はたしかに悔しそうではあるの
だけれど、どこか納得、という顔をして伊角を見ている。全くどこまでも子どもら
しくない、と楊海は苦笑して、その頭をくしゃくしゃとなでた。
『今日の伊角君にオレのMDプレイヤーとお前の深キョンストラップを賭けてもら
えばよかったぜ』
 前回の二人の対局の時、勝った趙石に取りあげられたMDプレイヤーのことを冗
談で言うと、
『別に伊角さんがそれでいいなら、MDプレイヤー返してあげてもいいけど』
と、意外にも素直に請けあう。
「趙くん、検討しようか」
 楊海と話していた趙石を伊角が呼ぶ。その検討には周囲で見ていたものたちもあ
れこれと口や指を出してきて、なかなかにぎやかなことになった。そんな中で伊角
はというと、一つの目標だった趙石に勝つことが出来て、嬉しいのだがまだ緊張が
解けてないような顔をしている。
『で、伊角さんはなにが欲しいの?』
「趙石がなにが欲しいんだって聞いてるけど」
 検討も終わり、遅くなったので観戦していた人たちも皆帰った訓練室で、なんと
なくこの場を去り難いと思っていた伊角と趙石、そして楊海が残り。
「そうですね…やっぱり」
 ちらりと楊海を見て、そして趙石に笑いかけた伊角の口から出たのは。
「オレが趙くんにマクドナルドおごるから、楊海さんにMDプレイヤー返してあげ
て」
「…ちょ、ちょっとまってよ伊角君」
 わけがわからない。要求するのは自分が欲しいものでいいし、第一なぜ勝った伊
角が趙石におごらなければならないのか。
 楊海に説明を求める趙石に通訳してやると、趙石も驚いた顔をしている。さっき
伊角がいいなら、なんて言ってたのは冗談だったのに。
『なんで!どうして伊角さんがボクにおごるの?』
 言葉はわからないが、趙石の口調と表情で伊角には伝わったらしい。
「だって、前回はオレが負けて楊海さんがMD取られたんだし」
「あれは、オレが勝手に」
「うん、でもいいんです。オレが勝ったんだから、オレの気の済むようにさせくだ
さい。オレは趙君にMDを楊海さんに返してもらって、そして一緒にマックでハン
バーガーが食べたいんですから」
 伊角はにこにこしているけれど、これはもう誰がなにを言っても無駄な気がした。
きっと絶対聞き入れない。そんな笑顔。
「全く、君は…」
「楊海さん、趙くんに明日のお昼一緒にマック行こうって伝えてください」
「はいはい」
 その通りに伝えると、趙石は当惑しながらもそれにうなづいた。そして。
「趙石が、じゃあ自分が君におごるからって言ってる」
「え、いいのに」
「君の気の済むようにしたんだから、趙石の気の済むようにもさせてやってくれ」
「…そうですね」
 伊角がありがとう、と伝えると、趙石はやっと笑った。じゃあまた明日、と大人
ふたりに手を振って、訓練室を出て行く。
「…お人よしって言われるだろ」
「言われませんよ」
 うそつけ、と心の中で楊海はつぶやいて、その満足げな顔を見た。このうそつき
な日本の若者はどうしてこんなにも自分を驚かせるのがうまいのだろう。
「ありがとう」
 お礼を言うと、伊角が驚いた顔をして楊海を見た。
「どうして。当然じゃないですか」
「…オレはそうは思わないけれど」
 そうかなあ、となんだか不思議な顔をしている伊角のほうが楊海は不思議だった。
全く、まだまだ読めない。楊海がいくら見つめ続けても、伊角を理解し尽くすこと
なんてできそうにもない。
 無性に伊角に触れたいと思った。思うと同時に、楊海の指が痙攣しているみたい
に揺れる。
 だけどその手が伸びた先は、伊角ではなく訓練室の電源で、楊海はとっさの衝動
を打ち消すかのように、ばちんと灯りを落とした。
 
 
 
 
 つづく 
 
 
 
 
 
 
 
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