畏れを踏んで
 
 
 
 
 
 以前なら、こんなときそばにいてくれるのはまもり姉ちゃんだったのに。
 
 
 
「糞チビ、止まったか?」
 目から鼻を覆うように載せられていた濡れタオルをひょいとめくられた。びっくりし
て顔に力が入る。こわごわ薄目を開けたセナの視界に、もうすっかり怖いとは思わなく
なった顔。
 ヒル魔の、顔。
「・・・たぶん、大丈夫です・・・」
 キャッチの練習中、顔面にボールを食らったせいで噴き出した鼻血は、セナの着てい
た主務Tシャツを血濡れにしてしまった。今ごろまもりが必死になって洗濯しているの
だろう。セナはというと、衝撃で一瞬気を失ったので、どこをどうして部室に運ばれて、
先日ヒル魔が買ったベッドに寝かされているのかわからない。いつ誰に体操服に着替え
させられ、そしてなぜ、ヒル魔が自分の傍らにいるのかも。
 大丈夫といったものの、ジンジンとしびれるような痛みがまだ引いていないので、本
当に止まったかどうか、セナにはわからなかった。ためしに上半身を起こしてみればよ
いのだろうが、衝撃は頭にまで響いているので、それも億劫で。
「・・・まぁ、もうちょっとおとなしくしてろ」
 セナがだるそうなのを見て取ったのか、ヒル魔はまたペロンと濡れタオルを戻したの
で、セナの目の前はまた白一色になった。明るすぎる視界。ひきずられるように、他の
感覚も活性化する。前にこのベッドに乗ったときのことを思い出して、胸の奥がぎゅっ
とすくむ。
 ぎ、とベッドがきしんだ。ベッドの、セナが腰を乗せているあたりが少したわんだ感
覚。ヒル魔が座った、とセナは頭の中でおろおろする。そしてちいさな機械音。ヒル魔
はどうやらノートパソコンを起動させたらしかった。少ししてキーボードを叩く音がし
て、それは途切れることなく続く。よくこんなに早く打てるなあと、あまりパソコンに
触れたことのないセナは感心してしまう。たまに見るデビルバッツのHPも、全てヒル
魔が管理しているのだが、セナにしてみればそういうものをさっさと作ってしまえるヒ
ル魔が不思議で仕方がない。この人に、できないことなんてあるんだろうか。こんなに
なんでもできるから、だからあんなに王様のようにふるまえるのだろうか。自分を、恐
怖ではなく、畏れさせてしまうのだろうか。
「・・・ヒル魔さん」
「なんだ」
「・・・練習は、どうなりましたか?」
 聞こうとしたこととは全然関係ないことが、セナの口から出た。しかし自分は一体な
にを訊ねようとしたというのか。
「筋トレ行ってる」
 テメーもせめてあの糞マネージャーくらいの力はつけろよなんだよ十キロってよ、と
思い出し怒られをして、セナは小さく体をすくめる。
「で、でも、あのときより少しは力ついたと思うんですけど」
「あー?まあバーはスムーズに上がるようにはなったかな」
「・・・そんなの最初から・・・」
「普通はバーだけから、なんて始め方しねーよ」
 いじめっ子。心の中でセナはこっそり言い返す。が、
「いじめじゃねー、真実だろ」
「な、なんでっ!」
「見りゃわかるんだよ」
「・・・顔隠れてるのに」
「ばーか、そんなもん・・・」
 パタン、とノートパソコンを閉じた音がした。そしてセナは今更のように、長い間消
えていたキーボードを叩く音のことに気づく。一体いつから、ヒル魔は手を止めていた
のだろう。
 ベッドの上が軽くなってそしてすぐに、テーブルの上に重いものを置いた音。それか
ら―――
 ヒル魔が、セナの両脇に手をついた。
「どうしてわかったか、教えてやろうか、糞チビ」
「ヒル魔さ・・・」
「オマエさ、拗ねるとちょっと、肩が内に入るんだよな」
 セナの左肩に、ヒル魔の長い指が触れる。ただ指が乗っかった程度なのに、まるで縫
いとめられでもしたかのように、セナは動けない。
「それから、ここ」
 ぐっと、ヒル魔の気配が近くなる。なにがどうなっているのかわからなくて、セナは
この視界を阻むタオルをどけてくれと叫びだしそうだったが、それより先に耳にちいさ
な刺激を感じて、言葉ではない叫びが漏れた。
「耳が赤くなるんだよな」
 ヒル魔は一体なにをしているというのだろう。また気絶してしまいそうだ、とセナは
体を震わせる。
「・・・いやか?」
 言葉と同時に、セナの視界が再びひらけた。驚くほど近くにヒル魔の顔。試合のとき
でもなければ見られないような、真剣な表情で、セナを見ている。「いや」?ヒル魔は
一体自分がなにをいやがるかと聞いているのだろう。
「ま、いやっていってもきかねーけどな」
 少し茶化すように言って、そしてヒル魔は、どすん、とセナの上に乗っかった。
「おも・・・」
 また鼻血が、と思う間もなく、ヒル魔がきつくセナを抱きしめた。
 細そうに見えて、しっかり筋肉のついているヒル魔の、意外な力強さ、そして熱さ。
 眩暈を起こしながら、でもセナは、この腕をずっと待っていたのだ、と自分もその腕
を彼の背中に回した。ヒル魔の体が少し揺れる。そんな中で、セナはどうして自分はこ
んなに非力なのだろうと、もどかしさすら感じていた。この腕は、彼が自分を抱きしめ
るその半分ほどの力も返せない。
「すき」
「・・・おい、糞チビ」
「すきです、ヒル魔さん、すきです」
 力が及ばないなら、せめて言葉で。せめて何度も何度も繰り返すことで。
 セナのその告白は、ヒル魔がそのくちびるで彼の口をふさいでしまうまで続き。
 のぼせたセナは、やっぱりまた鼻血を噴き出した。
 
 
 
「セナを運ぶときについたのかしらね?」
 ヒル魔がオイ糞マネージャーこれも洗っとけ、と差し出したユニフォームに、まもり
は一応、
「マネージャーだけでいいでしょ」
と文句を言いつつも、血の染みがついたそれを受け取っている。そのやりとりで、自分
を部室まで運んできてくれたのはヒル魔だったのだと、セナはむずがゆいような気持ち
になる。
「セナ君、もう大丈夫?ボール結構いい勢いで当たってたからねー」
 筋トレを終えて部室へ戻ってきた栗田がまだタオルを顔に乗せたままのセナに声をか
ける。栗田に続いて、新入部員達も続々と戻ってきた。
「は、はい。もう大分・・・起きますね」
 そう言って折りたたみベッドから降りようとしたセナだったが、
「もうしばらく寝とけ、糞チビ」
と、ヒル魔が足でセナの肩を押す。
「ちょっと!セナを足蹴にしないでよ!」
 目ざとく見つけたまもりがヒル魔に食ってかかるが、ヒル魔はいつものように相手に
しない。
「テメーら今日はもう帰っていいぞ。でも明日朝練遅刻してきたらブッ殺す!」
 まんざら冗談でもなくヒル魔がそう叫ぶと、竦みあがったメンバー達は蜘蛛の子を散
らすように出て行ってしまい、部室にはヒル魔とセナ、そしてまもりが残る。
「・・・ヒル魔、くんは、帰らないの?」
「るっせー」
 もう、とヒル魔に怒って見せたまもりだったが、それよりはセナのほうが気になるら
しく、ベッドの脇に立ってセナを覗き込む。
「セナ、帰れそうだったら一緒に帰ろう?送っていくから」
「う、ううん。もう少し、止まらないから・・・」
「そんなにひどいの?病院行く?」
「鼻血で病院なんか連れてくんじゃねー、過保護」
「過保護って、どこが過保護なのよっ!」
「どこもかしこも、だ。糞女」
「誰が―――!」
「あの、まもり姉ちゃん・・・」
「・・・なに、セナ?」
 激昂しかけたまもりだったが、セナの声に一時休戦とまたセナを見る。
「あの、僕は大丈夫だから、まもり姉ちゃん、暗くなりすぎる前に帰って?」
「でもセナ・・・」
 だるい腕を上げて、セナは顔の上のタオルを取ると、自分を覗き込んでいるまもりの
心配そうな目を見て、少し笑ってみせる。
「まもり姉ちゃん、女の子なんだから、遅くまで残っちゃダメだよ」
 その言葉に、まもりと、そしてなぜかヒル魔まで、ショックを受けたような顔をした。
 
 
 
 
「僕、なにか変なこと言ったんでしょうか」
 よろよろと力なくまもりが帰ってしまったあとの部室で、セナはこちらも複雑な表情
をしているヒル魔に、起き上がりながら恐る恐るといった様子で訊ねる。
「あー・・・変っつうか」
 ぽりぽりと首のあたりをかきながら、ヒル魔は体を起こしたセナに向かい合う形で、
ベッドに乗った。そして小さくため息。
「・・・糞マネージャーのこととやかく言えねーかもな」
「え?」
 セナが聞き返すのと同時に、ヒル魔はさっきしたようにセナの耳を柔らかくかむ。と
がった彼の歯にされていることのとんでもない卑猥さに、セナの体が跳ね上がり、また
がちがちになってしまう。
 そんなセナをくつくつと笑いながら抱きしめて、ヒル魔は息のような声で囁いた。
 
 
 
「オレも大概、過保護だ、ってな」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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