大きな河とちいさな恋 
 
 
 
 
 最初は小さな水滴がふたつぶだったのに。
 それがいつの間にか、流れをつくるまでになっている。
 時機というものは。
 確かに残酷なまでに存在していて、それは人の力ではどうにもできないものであ
るのだと、ヒル魔は逆に今この時に感じていた。水滴がいくら増えたところで、そ
れが河になるとは限らない。地に吸い込まれそして蒸発し大気に溶けてしまうこと
だって、大いにありうることだった。だけどそうならなかった。ヒル魔がそうさせ
なかったのではない。ただ、そうならなかった。
 悪魔ならいざ知らず、神だの運命だのといった、見えざる力を信じる気は毛頭な
いが、でも信じない自分など意にも介さず、超常的な力が働いているのだ。きっと。
 そしてヒル魔は、自分にそんなことを思わせるちいさな一年生をまじまじと見つ
める。見つめられた彼は、最近自分を前ほど怖がらなくなって、今こうやって強い
視線を彼に向けていても、なんだろう、という顔をしつつにこりとヒル魔に笑い返
していたりする。
「ヒル魔さん?」
 セナ、などという速そうな名前を持ち、しかしそれに恥じないだけの脚力を持ち
人を魅了する彼は、まだどこか子どもらしい甘さの残る声でヒル魔を呼んだ。
「・・・んでもねー。いいから早く終わらせろ、糞チビ」
 手を伸ばしてその長い指で軽く髪をはじくと、セナが小さく首をすくめて、
「だって生クリームがベトベトして取れないんですよ」
「ドージ」
「う・・・だって足がもつれて」
「ほーう。まだ鍛えようが足りねーってことか。床掃除終ったらジョギングでもす
るか?」
「イエ、それは・・・」
 ごにょごにょとうつむいて、セナは再び雑巾で床を擦る。高速のランニングバッ
ク、アイシールド21であることを隠すため、セナは他の部員達とはずらして部活を
終えて着替えるのだが、今日はたまたまセナのほうが先に戻った。そうして庶務の
服に着替えて練習器具の片づけに行こうとしたところ、部室のテーブルの足にけつ
まづいて、その上にあった、栗田の練習後のおやつを落としたのだった。
 テーブルの端っこなんかにケーキを置いていた自分が悪かったのだとタイミング
よく戻ってきた栗田は言ったし、マネージャーのまもりも、
「セナ、いいから、私がするから」
と、割れ物もあるわけではないのにセナを遠ざけようとする。それを、
「糞チビがひっかけて落としたんだから、糞チビに掃除させろ、過保護女」
などとヒル魔が言ったものだからまもりとの間に一悶着あって、しかし最終的には
まもりも少し出すぎたと思ったのか、他の新入部員たちのあきれた視線に気まずく
なったのか、セナに任せて先に帰っていった。もちろん誰も床で潰れたホールケー
キなどに未練はないので、さっさとロッカールームで着替えて一人二人といなくな
り。
 なぜだか、ヒル魔だけが、セナを手伝うでもないのに部室に残っているのである。
 それも、大嫌いなはずの甘いにおいが充満したこの空間に。
「生クリームって、意外に油っぽいんですね。石鹸かなにかないかな・・・」
「ねーよ」
「・・・明日の朝にしてもいいですか?」
 そう言って、セナが床を見たので、ヒル魔も椅子に座ったまま下を向いた。
 見事にひっくり返って落ちたところをセナに踏まれてズルッと滑ってひどいあり
さまだったケーキは綺麗に取り除かれ、ベトベトだった床も大分きれいになってい
る。ヒル魔は別にこれで十分だと思うのだが、セナは意外に凝り性らしい。
「もういいだろ、別に」
「・・・」
 まだなにか言いたげだったが、ヒル魔は自分が切り上げるのを待っているのだと
やっと気づいて、セナは急にあたふたと片づけを始める。汚れた水のたっぷり入っ
たバケツを持って外に出たかと思うと、驚くほど早く戻ってきた。こいつの足には、
毎度驚かされっぱなしだな、とヒル魔はぼんやり思って、だけどこういう驚きなら
大歓迎だった。
「ヒル魔さん、すみません、すぐ着替えますから」
 鍵はヒル魔と栗田が管理している。セナが帰らなくては、ヒル魔は部室に施錠で
きない。そう、セナは思って慌てているらしい。
 急に、ヒル魔ののどが乾いた。
 ヒル魔はそれを空気に混ざる甘さのせいにしようとして、だけど叶わなかった。
 欲しているのは水ではない。
「ヒル魔さん、お待たせしました。鍵、かけてください」
 まだネクタイも締めないまま、いつになく着崩れたかっこうでセナが飛び出して
きて、ヒル魔は天井を仰ぎ、ため息をついた。
「オイ、糞チビ」
「はい」
 カバンを持ったままで、もたくさとネクタイを締めているセナからネクタイを奪
う。
「こっち、来い」
 呆気にとられたセナを自分のほうに呼び寄せて、そうすると、座っている自分の
目線がセナより少し低くなる。どうしたいかなんてわかっているのにヒル魔はそれ
をせず、手の中のネクタイを改めてセナのシャツの衿に通し、器用にしゅるしゅる
と締めてやる。自分のネクタイも全然締めないくせに、人のなんてできるものかと
思ったけれど、存外うまくできた。セナも驚いた顔をしている。
「あ、ありがとございます」
 それを言うべきは自分のほうなのかもしれないと思ったけれど、だからって言え
るような性格ではないヒル魔としては、
「バーカ」
などと、わけのわからないことを言いながら髪をくしゃくしゃとなでるのが精一杯
で。
 だけどそのうち。
 こうして髪に触れることすら、できなくなるほど自分がイカレてしまう予感がし
たので、体からまだ少し甘い香りをさせているセナの髪を、いつまでもなでていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
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