錦 上 添 花
 
 
 
「やあ、おかえり」
 それを言うのはこちらであるはずなのに、相手に先に言われてしまった。その人
はまるで三日もいなかったことなど嘘みたいに、ベッドで寝転がって本なんて読ん
でいる。
「楊海さん、帰ってたんですか!」
 昼食を済ませたあと、午後が始まるまで昼寝でもと思って部屋に戻ってきた伊角
は、あっけにとられて部屋の主を見た。
「君と入れ違いだったみたいだ。朝には着いてたんだけれど」
「え、朝って…」
 自分が訓練室へ向かうのと入れ違いだなんて、そんな早い便があるのだろうか、
と思った伊角に楊海は、
「飛行機じゃないよ。汽車の寝台車で帰ってきたんだ」
 今回の地方棋戦は南京だった。飛行機の便がないわけではなかっただろう。行き
は確かに飛行機で行ったのだから。それに中国の汽車の旅はなかなかハードだと聞
く。確かにそう暇でもない楊海だが、体力や気力を消耗させてまで汽車を選んだ理
由がわからない。
「飛行機が怖いんだ」
「…本当ですか」
「ああ。あの、重力に逆らってる感じが嫌で嫌で」
 思い出すだけでぞっとするよ、と大袈裟に首を振って見せる楊海に、伊角は思わ
ず笑った。どこまで本気なのかわからないが、意外に本当なのかもしれない。
「…おかえりなさい」
 笑いが収まったころ、伊角は改めて楊海を見た。もうすっかり普段のシャツに短
パン姿で、こうもすっかり元通りにされてしまうと、この三日、一人でいたのがう
そのようだとさえ思う。
「ただいま」
 応える楊海の表情が、少し、揺れた。伊角はそれを、楊海が仰向けになって読ん
でいる本の影のせいだと思った。そうでなければなぜ。
「お土産があるよ」
 本を脇に置いて、楊海が勢いよくベッドから起き上がった。妙な雰囲気はそのお
蔭で拭い去られた。伊角は、お土産なんてそんな、とかなんとか言いながら楊海が
開けるバッグを覗き込む。能天気な声をだしながら。
「伊角君、ポットかして」
 取り出したのは、箱と、そしてお茶らしい袋詰のもの。気にはなるが、いわれた
ように二リットルは入りそうな、大きなポットを部屋の隅に取りに行く。周りは薄
いプラスティックに覆われているだけで、最初はこんな大雑把なつくりでどれだけ
保温が効くんだろうと思っていたのだが、朝入れたお湯を使って夜カップラーメン
が食べられる程度には効いている。このお湯は毎朝掃除をしてくれるおばさんが二
本分入れてくれるのだが、火気厳禁の室内ではとても重宝していた。
「このグラスはお土産じゃないけれど、小道具ってとこかな」
 そう言いながら、楊海は箱から取り出した大きなワイングラスを洗うために洗面
台に行って、ついでにポットのお湯で軽くゆすいでからまたそのお湯を捨てた。
「お土産はこれ」
 袋を開けて楊海が取り出したのは、一見なにかわからない、丸くて平べったいも
のだ。
「…お茶ですよね?」
 お茶せんべい、とでも言えばいいような。緑の茶葉が放射線状に平べったくまと
められていて、その真ん中には小さな白い花がくっついている。
「まあ、見てなさいって」
 当惑しきった伊角に笑ってみせて、楊海はそのお茶せんべいをグラスの中に落と
し、ポットのお茶を八分目くらいまで注いだ。湯の中で、お茶のかたまりが揺れる。
「じっと見てて」
 ことり、とテーブルの上にグラスを置くと、楊海はそう伊角に笑った。言われた
ことに素直に従っているのだという振りをして、伊角はただグラスを見つめ続ける。
楊海を見ることが、なぜだかとても気恥ずかしいのだということを、自分にはごま
かしようもなかった。彼が部屋にいるのを知ったその瞬間、一体どれだけほっとし
てしまったか。
 グラスの中のお湯に、少しづつ緑茶の色がつき始める。
 それと同時に、ふわり、とお茶の葉が動き始めた。
「わ…」
 平らだったそれは、ゆっくりゆっくり、お湯を吸って、膨らみ始める。丸みを帯
びたグラスの中を徐々に満たしながら珠のようになったその上に、白い花がぽつん
と咲いた。
「どう?」
「……すごい」
 それはまるで夢のような時間だった。あんなカラカラに乾燥した平べったいお茶
のかたまりが、どうしてこんなに完全な球体になるのか。そしてこれほどに美しい
のか。
「飲んでみようか」
 いつの間にか用意していたらしい二人分のカップに、楊海はそのグラスを傾けて
少しづつ注いだ。反射的に伊角は、半分ほど空になったグラスにポットのお湯を注
ぎ足していた。湯の中で揺らいでいたいかのようなそれを、妨げたくなかったのだ。
楊海がくすりと笑ったのが目の端に映る。その笑みは、同調の笑いだ。
「伊角君、はい」
 差し出されたカップにお礼を言って、楊海から受け取る。最近すっかり飲むこと
が増えた緑茶の香りがした。口に含んだそれも、不思議なほどに当たり前な緑茶の
味だった。
「見て楽しむお茶だから、味はまあまあってとこだけど」
「いえ、十分、おいしいです」
「錦上添花」
「…ティエン…?」
「ああ、ええとなんていうのかな、日本語では」
 そばにあった紙とペンを引き寄せて、楊海は今自分がつぶやいたらしい言葉を書
き付けた。錦上添花、と少しだけ崩した字で書かれたそれ。
「…きんじょうてんか、だと思います」
 伊角には少し自信がない。聞いたことも見たこともない言葉だった。
「そういう名前なんだ、このお茶」
 言われて、伊角はまたグラスの中と、そして今楊海が書いてくれた文字を見比べ
た。花が添えられている、というところは確かにそうだ。似つかわしい、いい名前
だと思う。
「もともとは成語なんだ。素晴らしいことの上に更にいいことが、っていうような
意味かな」
「縁起がいいんですね」
「だろう?」
 特に南京のお茶というわけではなかったけれど、目に入ったからついね、と楊海
は笑って、また伊角のカップにお茶を注いでくれた。こうしてお湯を注ぎ足しなが
ら、何度か楽しむのだと。
 楊海や伊角がグラスを傾けるたびに揺れるその錦上添花を見ながら、伊角はさっ
き楊海に教えてもらった成語の意味を思い返してみる。そしてその字の並びの美し
さを。
「楊海さん、ありがとうございます」
「気に入った?」
「はい、とても」
「じゃあいいんだ」
 そうして、封を切ったその錦上添花を、あげるよ、と伊角に渡した。
「このグラスもあげる。好きなときに飲みなよ」
「そんな」
「いいんだ。気に入ったんならもらってくれると嬉しい」
「…ありがとうございます」
 受け取って、伊角はもう一度カップのお茶を飲み、グラスの中で揺れる錦上添花
を見た。そして楊海を見上げ、胸の内で首をかしげる。
 彼がどうして、そんなにも緊張しているのか、伊角にはわからなかった。
 なんだかまだ妙だな、と思ったけれど、今の楊海の持つ雰囲気は、以前のように
伊角を苦しめることはなかった。
 
 
 
 
 つづく
 
 
  
  
 
 
   
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