Journey to the West!

 

 
『…そうして三蔵法師と孫悟空の一行は、高老荘で豚の精猪悟能を、流沙河で水の
妖怪沙悟浄を仲間に迎え、一路西を目指したのでした』
『誰が八戒だっ!!』
 豚、と言うのに合わせて自分を指差した悟空気取りの楊海に、豪快に飛び上がっ
てまで一矢報いんと楽平が腕を振り上げた。それをなにを言っているかはわからな
いながらもまあまあと三蔵法師よろしくなだめてから、伊角は窓の外を眺めた。同
じように窓際に座っていた楊海言うところの沙悟浄であるらしい趙石は、向かいに
移動してきた伊角にちょっと笑って見せ、また視線を外に移す。そんなふたりの後
ろで、楊海と楽平がなにかにぎやかに話している。
 八時近くになってようやく昇った太陽は、今やっと中天にのぼった。四人部屋の
コンパートメント、中国語でいう軟臥は空調も効いており、清潔な車内はとても気
持ちがいい。
 窓の向こうにはなだらかな丘陵。それを覆う緑の草。白く点在するのは、羊か山
羊か。絵に描いたってこんな理想的にはならない風景。そのなかを切り裂くように
走る汽車で。
 四人は西へ向かっている。
 ただ、西へ。
 
   
  ***
 
 
「…なんだ今の」
 声を出す必要はなかったはずだ。だけどそうしなければ、息すら出来ないのでは
ないかという気さえした。不自然に平坦な発音でそれだけ言った。もう一度言った。
伊角はそうしてやっと起き上がる。
 ベッドがきしむ音がした。慣れた感触だ。もうこのベッドには、高校に入ってか
ら三年も寝ている。
 奇妙な夢を見たものだと、苦笑さえした。一体あの三人は誰だったのだろう。
 自分より年上の男が一人、そして子どもが二人。夢の中の自分は彼らの名前を知
っていたようだが…ああ、もう思い出せない。それどころか、顔ももうぼんやりと
なってきている。日本人ではなかったということは覚えている。だからこそ、あん
な夢を見たのは不可思議であった。
「……」
 まだ覚めきっていないような頭で部屋の中を見回した。昨日脱いだ服が散らばっ
ている。その脇に、そこだけ綺麗に片づけられたかのような碁盤。当たり前の光景。
 時計は朝の八時を指している。少し寝すぎたのかもしれない。だからあんな夢を。
 ベッドを降りて床に転がっていたジーンズと、そしてタンスの中から出したTシ
ャツに着替えた。そうして、顔でも洗えばすっきりするだろうと、伊角はきちんと
閉めてなかったらしいドアを内に引いた。
 
 
  ***
 
 
「よく寝てたな。そろそろ夕飯に行こう。食堂車が始まったって放送が入った」
 コンパートメントの下の寝台で眠っていた伊角を、楽平が揺すって起こし、伊角
は飛び上がった。楊海が寝ぼけた伊角を笑う。趙石はもういなかった。
「趙石が先に行って席と注文を取ってくれてる。ああ、先に顔を洗うかい」
 楊海にタオルを渡されて、伊角は思わず乾いたそれで顔を拭った。
 乗り物酔いから気持ち悪さを取ったような、そんな気分。
『イスミクン!早く行こうぜ!オレおなか減ったよ』
「あ、ああ。うん」
『楽平、お前だってさっきオレが起こすまでグーグー寝てたくせに』
『起きたらおなか減ったの!いいから行こうってば』
「はいはい、っと。伊角君、持って行きたいものとかないね?」
「ええ」
 そうして、コンパートメントを出ると、楊海は通路にいた乗務員を呼んで鍵をか
けてもらう。
「伊角君どこ行くの」
 食堂車はこっちだってば、と腕を引かれた。
「ああ、そうだった。いつも勘違いしてしまうんです」
 まるで右も左もわからない子どものように。
「方向音痴?」
 さらさらと楊海が笑って、車両のつなぎ目でふたりを呼んでいる楽平のもとへと
伊角をいざなう。
 がたんごとんと揺れる汽車のデッキ部分を歩きながら、横目で窓の外の光景を見
た。日はまだ沈んでさえいない。それでももう七時だ。夏ゆえに、その時差はごま
かしようもなく顕著だった。
 やっと食堂車に入ってきた三人に、それでも子どもひとりで心細かったのか、趙
石が元気よく手をあげてみせた。
『ここだよ』
 
 
  ***
 
 
「ここだよ」
 楊海がすっと長い指で示した先は、伊角の気づかなかった手だった。指摘されて
みれば、気づかなかったのが不思議なほどにそれは間抜けなミスだった。
「…ああ」
「それもいいけどさ」
 脇で見ていた趙石が、楊海が出したのとは別の切り口を述べる。言いながら並べ
て見せて、それに触発されるように伊角も、二人とは違う活路の尻尾を捕まえた。
それを並べてみせると、
「これをさっき出されてたらオレが負けてたよ」
「うん、そうだね」
「…趙石」
「でも出せなかったんだから…」
 そう、勝負はもうついていて、あとでなにを言ったってその勝負にとっては遅い
のだ。苦い思いに包まれる伊角に、楽平がべたりと張りつく。
「イスミクン、次オレとだよ」
「ああ、レェピン。お願いします」
「おねがいしまーっす」
 楊海が席を空けるが早いか、楽平が伊角の前に座った。ぴょこんと頭を下げて、
上げた顔はもう一人前の棋士の顔になっている。
 伊角の先。
 少し考えたあと、伊角は手の中握り締めていた黒石を、ぱちりと音を立てて盤上
のある一点に置いた。伊角が意識を周囲から完全に遮断する。
 そして周囲が、伊角を切り離した。
 
 
 
 
 夢を見ているのは誰だ?
 
 
 
 
 つづく
 
 
 
 
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