Ya−Ha−?
 
 
 
 
 疲れてるんだよ、寝かせてあげよう。
 そんな風に栗田が言ったので、ヒル魔は伸ばしかけていた腕を止めて、引き戻すと
がしがしと頭をかいた。二人の気配に気づきもしないセナは、腕を枕にするでもなく、
横を向いてほっぺたをテーブルにべったりとつけて、熟睡している。部室に置かれた
テーブルは、頭を預けて寝るには硬いし不適切であると思うのだが、セナにとっては
どうでもよいことであるらしかった。
「授業もさ、たまにならサボるのもいいじゃないの」
 真面目そうな外見のわりに、ヤケに物分りのいいことを言う栗田。セナが一体いつ
からここにいるのか知らないが、昼休みのうちに壊れた練習器具を外に出しておこう
とヒル魔と栗田が来た時にはもうぐっすりだった。真面目そうなこのチビが、それで
もサボらずにいられないほどに疲れている。
 練習器具は少し持ち上げただけでも結構な音をたてるので、二人は運ぶのを諦めた。
最初から放課後練習の前に他の部員にやらせりゃよかったんだ、と自分から昼のうち
に運んじまうぞと言い出したくせに、ヒル魔はぶちぶちと文句を言う。そのくせいつ
までも部室から出ようとしない。午後の授業があと五分で始まるという鐘が鳴っても。
「ヒル魔、授業だよ?」
「…たまにならサボるのもいいんだろ」
「ヒル魔はたまじゃないじゃ…」
 しかし栗田はそこまでしか言えず、がしゃん、とマシンガンを構えたヒル魔にあえ
なく遁走した。外界の音さえ遮る栗田の巨体が消えた部室に、もう間に合いませんよ、
と告げる鐘の音が響く。セナはそれでも目を覚まさない。
 開け放たれたままだった扉を閉めると、急に中が暗くなる。改装した際、部費集め
のために作ったカジノでのやりとりが外からうかがえないようにと窓も極力小さくし、
さらに磨りガラスをはめたため、自然光は十分には入ってこない。それでも淡い色の
テーブルに身を預けるセナを見失うことはないけれど。
 疲れてるんだよ、という栗田の言葉が、ヒル魔の頭から離れない。
 あんまりにも衝撃が強かったらしく、なぜかセナのすぐそばにある椅子に腰掛ける
ことすらできないでいる。
「疲れてる、か」
 だらりとぶら下がるセナの両腕。視線を上げて、肩、そして首。背中と腰、それに
つながる足。制服の上から見ても、運動してきた人間のそれではないのが丸わかり。
チビだとかそういうこと以前だ。確かにこんな体でアメフトの練習に参加していれば、
疲労は計り知れないだろう。動きになれていないから、尚のこと。
 グズグズ文句は言っているようだが、しかしなんだかんだで練習には参加するし、
近頃は向上心も生まれてきたようだったから、安心していた。浮かれていたのかもし
れない。
 セナが仲間になったことに。
「……」
 らしくない感情にうろたえ、ヒル魔はドアを開けて部室を出ようとする。しかし思
い直して、携帯電話を取り出すと、どこかへ電話を掛けはじめた。
 
 
 
 
 うーん、とだるい体を反転させる。急激に筋肉を酷使したため、ここのところ体温
は上がりっぱなしで、セナは慢性的に眠い。今日も耐え切れなくて、三限目が終った
段階で部室に転がり込んで眠ってしまったのだが、はて、一体今は何時だろうと腕時
計を見ようと目を開ける。が。
「…っ?!」
 視界が、ない。そもそも、自分はどこで寝返りを打ったというのだろう。テーブル
の上に置いたのは頭だけだったはずなのに、どうして体ごとひっくり返せるのか。
「…起きたか糞チビ」
「???!…ヒ、ヒル魔さんッ?!」
 あろうことか、セナはヒル魔の腕の中で。視界がないのは、寝返りを打ってヒル魔
の胸に顔をうずめたからという、信じられない事態のせいだった。
 たくさんのなんでという疑問で埋め尽くされたセナを、ヒル魔は、
「バーカ」
と冷ややかに突き放す。床は痛い、と思って見をすくめたセナだったが、案に相違し
て、落ちた先は柔らかい。
「…ベッド」
 そう、ふたりがいるのはベッドの上で。壁に背をもたれさせたヒル魔に、セナはさ
っきまで抱きかかえられていた、らしい。
 ありえない、とベッドに倒されたままセナはつぶやく。なにがだ、と目を細めなが
ら顔を近づけてくるヒル魔に、ただでさえ高い体温が一気にまた上昇する。おまけに
涙までにじんできた。だってヒル魔が、怖い。
「おいッ」
 今度こそ、本当にセナは床に落ちて、なかなか派手な音をたてた。
 
 
 
 
「そもそも、どうしたんですか、このベッド…」
 乱暴極まりないことに、頭にできたこぶに直接コールドスプレーをかけられながら、
セナはぽふぽふとそう大きくはない、よく見れば折りたためるらしいベッドを叩いて
みせる。ヒル魔はというと、スプレーをしつこく噴射しながら、
「さっき学校の金で買った。これでこれから仮眠も取り放題だ」
と、こともなげに言って、ほとんど空になったスプレー缶を放り投げて新品のベッド
に寝転がった。学校の金でって、と一瞬また気が遠くなりかけたセナだったが、もう
いいかげん慣れたのか立ち直りは早い。第一、そんなことよりずっと。
「…なんで…」
 聞きたいことが、セナにはあるらしかった。だけどヒル魔は、それに答えてやれる
自信などなかったので、その問いを聞きたくなかった。しかしヒル魔が抑止する前に
セナの言葉を遮ったのは、らしくなく真顔になった、ヒル魔の表情で。そしてそれは
とても有効だったらしく、セナはそれ以上なにも言わずに、うろたえたような怯えた
ような顔をしてうつむいてしまった。そうなると、今、ふたりで同じベッドの上にい
るこの状況はとても危険なものなのだと、今更ながら気づいて。だけどふたりとも、
根が生えでもしたかのようにおりられない。見つけたはずの活路は、瞬時に塞がれる。
いや、塞ぎあっている。進めないのはもどかしい。だけど、その活路は本当に正しい
活路なのだろうか。逃げるように進んで、それでいいのだろか。
「…糞」
 いつもの口癖を、ヒル魔がつぶやく。力なくうなだれていたセナがびくりと体をふ
るわせ、でも顔をあげて―――――
 
 
 
 
「もー、ヒル魔結局午後全部サボるんだから!!」
 珍しく怒りながら部室へ入って来た栗田は、部室に新しく増えたそれに目を丸くし
た。
「え、ヒル魔、ベッド買ったの?」
「……」
 しかしそれには返事せず、ヒル魔はようやくのそりとベッドからおりる。少し遅れ
てセナも。
「わあ、折りたたみ式だあ。便利だよねえ」
 のんきに喜ぶ栗田は、さっきまでふたりがその上にどんな雰囲気で座っていたかな
ど、まるで気づいていないらしい。セナは心臓をバクバクさせながらその場から這う
ようにして逃れ、ヒル魔はなんとも中途半端な表情をしたまま、はしゃぐ栗田の相手
をする余裕もなくセナを追って部室を後にする。
「ヒル魔!セナ君も、部活始めるんじゃないの?」
 ヒル魔からわけもなく逃げたい気持ちで一杯のセナは、栗田の声も耳に届かない。
しかし、
「待て糞チビ」
 ドスの効いた声にビビッてるうちに、あっさりヒル魔に追いつかれ。
「な、なんでしょうかっ」
 しまいにはクラブハウスの壁に縫いとめるように両手首をつかまれて、弱々しくう
めく始末。
 ヒル魔はしばらくそうしていて、なにをいおうとして、だけど言葉にできない。セ
ナの異常に高い体温が自分までおかしくしているのだと思い、しかしそれがちっとも
不快でないということに、混乱はひどくなるばかりで。
「…三日待て」
 口走ったのは、そんな言葉。セナが、怯えた声で、それでもヒル魔へ問う。
「…なにを、ですか」
「いいから、全部、なにもかもを、だ」
 三日もあれば。
 頭を冷して、いつもの自分に戻れるだろう。
 なんで衝動的にベッドを買ってしまったのかとか、そのくせセナをベッドではなく
自分の胸で眠らせていたのはなぜかとか、さっき、顔を上げたセナに一体なにをしよ
うとしていたのかとか、そんなことはそれから考えればいい。
 それでもダメなら。
 もう一度あのベッドでセナを抱いて眠ってみよう。
 なにかがわかるか、それとも、正しい活路が現れるかもしれない。
「…あっちい手」
 こっちにまでうつっちまう。
 掴んだセナの手を放して、ヒル魔はまた部室に戻る。一分後、一気に緊張が解けた
セナがずるずると地べたに座り込んでしまったのを見なかったのは、彼にとって幸い
だったのかどうか。
 なにせそのときのセナの顔といったら、今にも溶けそうなほど、真っ赤に甘かった
ので。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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