賊 風
 
 
 
 全くなんて繊細な男なんだろうねえ、というのが楊海の伊角に対する第一印象で、
それは伊角が自分の部屋に居候するようになって一週間経った今も拭えない。どこ
ろか、いや増すばかり。
「…伊角君、それ何」
 今日の対局が終ったのか、楊海がかたかたとパソコンのキーボードを打っている
部屋に帰ってきた伊角は、ただいまを言うより先に自分のバッグの中から少し大き
めのポーチを出し、ごそごそと漁って濃い色の小さなガラスビンに入ったものを取
り出した。ポーチは常備薬入れだったらしい。それくらいなら楊海もいちいち気に
留めたりしない。伊角が中国に来てからだとそろそろ二週間になる。外国に来た緊
張が解け始め、気の緩みからそれまでにたまった疲れやらなにやらで体調を崩して
もおかしくはない時期だ。
 しかし、碁が絡むことならまだしも伊角のプライベートにまでは首を突っ込まな
いようにしている楊海に思わず体を乗り出させてしまうほどに、その小さな瓶から
放たれる異臭は強力で。
「あ、すみません、これ臭いんです。廊下で飲んできますね」
 反射的に楊海が伊角の腕を引いて止めなければ、そのまま、せっかくのハンサム
も台無しな青いような顔のまま部屋を出て行ってしまいかねない伊角に、楊海もい
ささかげんなりする。誰も部屋を出て行って飲んで来いなんて言ってない。楊海が
欲しかったのは、質問に対する答えだ。
「なにか、って聞かれたら、先にそれに応えるべきじゃないかな」
 引っぱられてベッドに腰掛けられる形になった伊角は、ぱちぱち、と瞬きをして、
「そう、ですね。すみません」
「だから謝るなって」
「はい。あ、ええと、これは正露丸って言って」
「セーロガン?なんかどっかで聞いたことが」
「有名な薬だから」
 日本人の知り合いが口にしたのを聞いたか、それともHPやマンガなどで見たの
かもしれないな、と思いつつ、楊海は、
「ちょっと見せて」
と伊角の手の中からその瓶を借りる。
 中にあるのは黒っぽい小さな丸薬。臭いは本当に強烈だ。中国の薬屋では嗅げな
いタイプの臭いで、きっとすごく苦いんだろうなあと想像してみる。これのお世話
になる気にはとてもなれない。健康第一だ。それはさておきなんの薬かというと。
「…伊角君、ハライタ?」
「え…はあ、ちょっと」
「なんか変なもの食べた、とか?」
「いえ、それはないです」
 自分で聞いた楊海だったが、すぐにそうだよな、ないよな、と思いなおす。伊角
はここに来てからろくすっぽ外にでたことがない。食事はほぼ棋院内で済ませてい
るし、たとえ外に出て食べるにしても、自分を含め伊角につきあう誰もが極力清潔
なところを選んで連れてっている。第一そこまで気を使わずとも、腹痛を起こすよ
うな衛生状態の店は最近の北京ではほとんど見られない。
 しかし、食べ物が原因ではないというならやはり。
「…神経性のもの、かな」
「みたいですね」
 すぐ腹に来るんです、と情けなさげに、そして恥ずかしげに伊角はうつむき、楊
海から正露丸を返してもらおうと手を伸ばした。楊海はその手に自分の手の熱で少
し温まった瓶を戻してやりながら、
(繊細過ぎやしないかな)
なんてぼんやり思う。伊角はその外見もまるでたくましさを感じさせない。自分た
ちに比べればとても、そう、線が細い。
 線が細いなんて言葉を、それも人に対してどこでどう使うのかと思っていた楊海
だったが、伊角を見てやっと納得がいった。これはまさしく日本人のための形容詞
だ。
 そう言えばもう三年ほども中国にいる日本人の知り合いが、
「中国に来ると女は太るけれど男は痩せる」
なんて言ったことがあった。それを言ったのは男で、痩せているとは言いがたい体
型だったが、そんな彼でも日本にいた時よりは一回り小さくなったという。女がた
くましいのは、中国でも日本でも同じらしい。しかし中国の男は、これほど繊細で
はない。
 確かに伊角は、ここに来た当初はわからない中国語に大分参っていた。聞き取れ
ない言葉など無視しろというと、わからないからこそ無視できないという伊角の返
答に楊海は驚愕した。そんなに周りを気にしてどうして碁が打てるはずがある、と
呆れたのである。伊角は小さなことにかかずりあいすぎている。もっと碁だけを見
ればいいのに。大体碁を打つ中で、完璧な環境や状態で対局できることのほうが少
ないだろうに。
(なんていうか、温室育ち、だよなあ)
 ふてぶてしさやタフさが感じられない。
 そんな気持ちは伏せて伊角に送ったアドバイスは効き目があったらしく、伊角は
徐々に調子を取り戻せているようだった。しかしそれと環境に対する緊張が解ける
のは別個の問題だったらしい。
 結局部屋は出ず、そのままペットボトルのミネラルウオーターで正露丸を数粒飲
んだ伊角は、やっぱりとても苦かったらしく口直しにと飴を取り出し、一つを楊海
にもくれた。これは日本から持ってきたらしい。珍しいものは好きなので、楊海も
ありがたくちょうだいした。こんな物後生大事にとっててうっかり楽平辺りに見つ
かったら、あらゆる手段を用いて奪われるに決まっている。口に放り込んで、また
パソコンに向き直った。出来れば夕飯までに片付けてしまいたい。
「部屋が臭くなりましたね」
 すまなそうに言う伊角に、背を向けたままこたえる。
「そんなもの換気すればそのうち消えるよ。いいから寝てたら、夕飯まで」
「…今日は夕飯、食べない方がいいかもしれないです」
 窓を開けようと立ち上がった伊角は細い声でそうつぶやき、からから、と窓を四
分の一だけ開けた。また遠慮してるのかなと思って、もっと開けていいよ、と手を
止めた楊海が言うより先に、すう、っと近くの木の間から風が入り込む。そのまま
伊角は窓の桟に手をかけ、風に吹かれている。初夏の夕方。青白いばかりだった伊
角の表情が、薬の効き目か風のお蔭か、少し力を取り戻す。その頬に、夕日を映す。
「隙間風って、気持ちがいいですね」
 目を細めて、伊角は風の来る方を見つめた。まるで空気の流れを読もうとでもい
うかのように。
 
 
 口に含んだ飴のとろけるような甘さを、強く意識する。
 楊海はその日、それ以上キーボードを叩くことができなかった。
 
 
 
 つづく
 
 
 
 
 
 
 
 
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